明治45年の完成以来、北近畿に住む人の交通を支え続けた余部橋梁。平成22年にはコンクリート橋に架け替えられましたが、旧橋梁と変わらず空を行き交うような汽車の風景が楽しめます。「焼き菓子と珈琲のお店 【時と】」があるのは、この余部橋梁を望む絶好のスポットです。「コーヒーマイスター」の資格を持つ店主の山西香奈子さんが営むこのお店には、ほっと一息つきたい人、誰かにお菓子を届けたい人など、遠方からもお客様が訪れています。
「誰かやってくれないかな」がいつしか「自分でやってみよう」に
山西さんは同じ美方郡の新温泉町の出身で、結婚を機に余部に移住しました。同じ美方郡内ということもあり、大きなギャップもなく、最寄りの小学校である「余部小学校」は全校生徒が15人程度で、みんなが家族のように育ち、のびのびと子育てができる環境を気に入っていました。人と関わることが好きだった山西さんは、3人の子育ての傍ら、販売や飲食などの仕事に就き、充実した日々を送っていましたが、時折物足りなく感じることがあったといいます。
「子どもを連れて立ち寄れるところが少なくて、お散歩も、道の駅の公園の周りをウロウロするだけでマンネリ化してしまって。香住駅近くまで行くと色々あるのですが、この余部に、子育ての合間にほっと立ち寄れるようなお店があれば良いなとずっと思っていました」
余部橋梁は、橋梁の下から見上げるだけでも迫力があり、更にそこを汽車が通れば圧巻。豪華寝台列車『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』が走り抜けることもあり、いわゆる撮り鉄の人にも人気のスポットです。さらに、展望施設の余部鉄橋「空の駅」からは、広大な日本海を見渡すことができるなど、バスツアーのお客様などに人気のスポットでもあります。しかし、どんどん便利になっている鳥取市と京都府宮津市を結ぶ山陰近畿自動車道を利用する人たちにとって、余部は「通り過ぎられる存在」だと感じてしまうことが山西さんにはありました。また、自慢の絶景である余部橋梁も地元の人にとっては「いつでも見ることができる存在」になり、買い物や飲食となると、余部ではなく香住駅周辺に行くことが多いため、余部に人が来なくなってしまう危機感を覚えたと言います。
「橋梁だけでなく、ここに来たいと思ってもらえるようなお店を誰か開いてくれないかな」
余部に来てからずっと抱いていたそんな思いは、「私がやってみようかな」へといつしか形を変えていきました。
ブレない軸で乗り越えた、ワンオペ開業準備
「このまちで何かをしたい」そう思った山西さんですが、アイディアはいくつか出てくるものの、うまく形にならない状態が続きました。大きな転機になったのは末のお子さまが保育園に入ったころに勤め始めた香住のケーキ店内併設の喫茶店での経験でした。お客様とのふれあいが楽しかったのはもちろん、サイフォンで入れるコーヒーの奥深さに惹かれたと言います。
「点てる人、時間、温度で味がすごく変わるので、難しいけど面白いなと思い、コーヒーの勉強を独学でしました」
「コーヒーを出すお店がやりたい」でもそれだけではなんとなく物足りないと感じていた山西さんが、勤務先の喫茶店がクッキーなどの製造をしていたことがヒントになりました。「焼き菓子を作るのは楽しそうだなと思って。香美町や新温泉町で焼き菓子の専門店もあまりなかったので、『これだ!』 としっくりきて。初めて自分で極めてやっていきたいと思えるものに出会えた手応えがありました」
余部に、自分が極めたいコーヒーと焼き菓子でお店を作る。そのビジョンが明確になりましたが、山西さんは当時も今も子育ての真っ最中。
「まだ子育て中…とは思いましたが、いつかはやってみたい、その『いつか』を待っていたらいつ来るんだろうと思って。今が多分、私がやるべき時なんだという確信があったので、そこからは一気に動き始めました」
それからは開店に向けて奮闘の日々。今の【時と】がある物件は、かつてカニ加工場として建てられた建物でした。余部に住んで14年になる山西さんがその物件を意識したことはありませんでしたが、紹介されて見に行くと、橋梁を望む絶好のロケーションに一目惚れ。開業資金を抑えるために、塗装や改修などはできるかぎり自分一人の手で行いましたが、想像以上に大変で、心が折れそうになったときもあったと言います。そんなときも山西さんの芯にある気持ちがブレることはなく、2022年9月に無事オープンの日を迎えることができました。
気軽に立ち寄り、その人その人の「時」を過ごせる空間に
焼き菓子の品揃えは、ショートブレッドにフィナンシェ、パウンドケーキ、クッキー、スコーン、マフィンなど多彩で、思わず目移りしてしまいます。おすすめはショートブレッド。素材本来の味が純粋に感じられる人気メニューです。焼き菓子のメニューは、かつて務めていた香住の喫茶店で、お客様のニーズとして感じ取っていたことを反映しています。贈り物にはもちろん、普段使いのご自宅用としても購入してもらえるよう、気取らない雰囲気の素朴な焼き菓子が並びます。材料は国産バター、国産小麦にこだわり、素材そのものの味が楽しめるレシピを考案。3人のお子さまが試食部隊となり、忌憚なき意見を山西さんに伝えることでブラッシュアップを重ねてきました。
焼き菓子が多彩な分、コーヒーは迷わず選べるようホットとアイスを一種類ずつ。迷子にならずに選べるシンプルなコーヒーを届けることを心がけています。
現在【時と】は、地元の高齢の方がホッと一息コーヒーを飲みに来たり、SNSやメディアでお店を知った人たちがお祝いやお土産に焼き菓子を買いに来たりするなど、様々な人たちが立ち寄り、時を過ごすスポットになっています。2023年2月からは、児童書に造詣が深い地元の方が、おすすめの絵本をならべた絵本コーナーもでき、子育て世代の来店も増えました。
開店日を増やして欲しいという声も上がり、接客が大好きな山西さんにとってもそうすることは目標の一つですが、「今はまだ、子育てメインの運営になっています。放課後の子どもたちが遊びにきて、大きくなってからも『おばちゃん、来たよー』って言ってもらえるような場所になれたらと思うので、いずれ子どもの成長とともにこの店も変わっていけたらと思っています」
ちょっとした時間に立ち寄ってもらって、その人の時間を味わってもらいたい。その思いでつけた【時と】という名前。子育て中の山西さんにとっては、イレギュラーな事態はつきものですが、そのお子さまたちからも励まされながら、お店育てにも奮闘し続けています。