山々に囲まれた土地に見られる「棚田」。山の斜面を有効活用して作られた段差型の田んぼは、日本の伝統と文化を思わせる原風景とも言えます。代掻(しろか)き後、水を張った田は周囲の景色を映し、秋はこぼれんばかりの稲穂が頭を垂れる、まさに棚田は日本が世界に誇る絶景です。
香美町小代区にも、日本中から、そして世界から人々が訪れる美しい棚田があります。貫田地区の「うへ山の棚田」です。1999年7月農林水産省によって「日本の棚田百選」の一つに認定され、田植えや稲刈りの季節には多くの人がカメラ片手に訪れる、話題のスポットでもあります。しかし、傾斜地で段々になっているため、大型の機械での手入れができないなど、棚田の維持には平野部の田んぼ以上の労力が必要です。自然の中に息づく美しい風景も、そこに暮らす人々のたゆまぬ努力によって守られ続けているものなのです。
現在「うへ山の棚田」を守っているのは地元の有志グループ・「俺たちの武勇田」のメンバー。それぞれ普段は建築関係・造園関係、福祉関係、公務員など本業に勤しみながら、休みの日や空いている時間を使って棚田の保全に努めています。その活動の根底にある思い、棚田のもつ可能性について、メンバーの田尻幸司さんと小林良斉さんにお話を伺いました。
「外から目線」で気づく、地域の財産
結成当初からのメンバー、田尻幸司さんは幼い頃からこの絶景とも言える棚田の風景を当たり前に眺めて育ってきました。
「うへ山の棚田を美しい景色などと意識したことはありませんでした。子ども時代は稲刈り用のコンバインもなく、バインダーで刈った稲を稲木にかけて風向きを計算して干して……。美しさよりも、手伝うのが煩わしいなというような思い出でした」
大人になり、自らが中心となり米作りをし始めたのも義務感によるものが大きかった田尻さんの意識を変えたのは、「外の人」からの視線だったといいます。
「当たり前過ぎて、中にいたらわからないものですね。でも観光に来た人がキレイだキレイだと写真を撮っている姿を見たり、小代の棚田が棚田百選に選ばれたことを知ったりすることで、『これは素晴らしいものだったのか』と気づかされたという感じですね」
大型の農業機械で作業がしやすいよう、圃場(ほじょう)整備が進む現在では、棚田のようにもとある地形を生かした形での田んぼは少なくなっています。
「でも、この形で残っていることこそがすごい。この形のままで、この形のままがええんだと今は思います」
自然とともに暮らしてきた先人たちの知恵と労力の結晶である棚田が作り出す風景は、いつしか地域のみんなの誇りになっていきました。
村一丸となり守り続ける「うへ山の棚田」の風景
ところが2010年を過ぎた頃から、うへ山の棚田の一部に耕作をしていない様子が見られました。田んぼの持ち主に話を聞くと、「もう、よう(米を)作らへん(作れない)」とのこと。地元からも観光客からも愛され続けるうへ山の棚田の風景、その一部が荒れてしまうことに地域の誰もが危機感を覚えました。うへ山の棚田の所有者を中心に、「なんとかこの風景を守りたい」という、その思いに賛同する貫田地区の住民が結束。2012年、耕作されなくなった田んぼを荒起し、代掻き、田植えと手探りのまま作業が始まりました。
それぞれに本業もあり、耕作経験のないメンバーもいる中、村の年配の方からは「若いもんらには無理だ」「最後までできんだろう」という厳しい声もあったといいます。しかしその一方で、苗を提供し、器具や肥料の知識を伝え、耕作のノウハウを教えてくれたのもまた、村の先輩方でした。
「棚田それぞれに個性があり、『じゅる田』といって水はけが悪い田んぼなどは早めに水を切る必要があります。でも当初はそれを知らず、足がぬかるみに取られて動けないまま稲刈りをしたり、稲刈りの時期に雨が降ったりと大変苦労しました。コツも村の人達に教えてもらいながら、年々経験を重ねるごとに棚田一枚一枚の個性がわかってきたような感じです」
トライアンドエラーの連続を乗り越え、「俺たちの武勇田」の活動は多くの人に注目されることになりました。そしてそのことが、後にうへ山の棚田に新たな転機をもたらすことになるのです。
外との関わり、そして移住、ゲストハウス…貫田地区の新たな可能性とは
経験を積みつつ新たな休耕田を引き受けながら活動を広げてきた「俺たちの武勇田」メンバー。活動資金は本業の休日に、集落の水道タンクを清掃したり、水路の整備をしたり、スキルを生かして頼まれごとを引き受けたりする「ホリデ~交業」で調達。
「そしてその資金で、みんなで酒を飲む。作業で集まってもその日のうちに飲む。それがあるからみんな楽しんで参加できてる」というように、コミュニケーションの場がメンバーの絆を深めてきました。
生き生きと活動するメンバーの様子が話題を呼び、小代小学校での活動発表や、小代中学校の体験学習、村岡高校の総合的な学習の時間の授業等で中高生を受け入れるなど、地元との交流も増えました。そして、「俺たちの武勇田」メンバーの小林良斉さんが窓口となって、神戸市の夙川学院大学(当時)観光文化学部をはじめとした都市部の大学生も受け入れ、田植えや稲刈りの作業もともに行うようになりました。受け入れた大学生の中には、「ゼミの一環として」来たはずが、うへ山の棚田のあまりの絶景ぶりと人の温かさに惹かれ、ついには移住してゲストハウスを開いたという田尻茜さん(旧姓・北田さん)の存在も。茜さんとうへ山の棚田との出会いが一つの転機となり、うへ山の棚田は観光スポットから一歩踏み込んだ、「関わりしろのある場所」として認識され始めてきました。
田尻茜さんのストーリーも「WONDERKAMI」で紹介しています。
「茜さんが学生時代から周囲に声掛けをしてくれていたことで、地元以外の方も継続してうへ山の棚田に関わり続けてくれるようになりました。、若い人が集まって草抜きのイベントをしてくれるなどの風景を見ると心強いです。若い人と関わるのはこちらも楽しいですし、小代の人は外から来た人に対してもオープンな人たちなので、うへ山の棚田と長く、毎年関わってくれるような人たちがこれからも増えたらいいなと思っています」と小林さんは希望を持って話します。
守りたくなる美しい風景。そして関わり続けたくなる人のつながりと、人が集まりやすい拠点の存在。貫田地区の人達と、守られ続けてきた棚田の存在がもたらす、地域づくりの新しい可能性にこれからも注目が集まります。