地域の人が集い、観光客が訪れる、佐津のHUBとなるヤマカフェを目指して

地域の人が集い、観光客が訪れる、佐津のHUBとなるヤマカフェを目指して

白い砂浜が人気の佐津海岸。海水浴のシーズンにはたくさんの家族連れで賑わっています。
そんな佐津海岸で唯一の浜茶屋として親しまれている「ヤマカフェ」は、山下暢嗣さんが10年ほど前から営業されています。
今年からは夏の期間だけでなく、年中お店を開けるようになり、より多くの方に海を見ながらお茶をしたり食事をしたり、夜にはお酒も楽しんでいただけます。
子供の頃から育ってきた佐津の地域をよりたくさんの人が楽しめる場所にするために、山下さんの挑戦は始まったばかりです。

香美町香住区訓谷の佐津海岸で、山下さんのご実家では長年、砂浜や駐車場の管理を区から任されてきました。
父親は新聞配達店を、母親はスナックをそれぞれ経営しており、忙しくしている中で、山下さんは幼い頃から砂浜のゴミ拾いや、夏場の忙しい時期のお手伝いを当たり前のように行ってきました。
高校を卒業すれば、ほとんどの人たちは、町外に出るのが当たり前。山下さんが学生の頃はそんな空気感もあり、山下さんご自身も例に漏れず、大阪の専門学校に進学します。
そうして、社会人となり大阪のサーフショップで働きながらも、夏場は香住へ戻り忙しい時期をお手伝いする、そんな青春時代を過ごします。
20代前半の頃に自転車で日本一周をしたり、東京での暮らしも経験し、まだまだ色々やりたい気持ちを抱えていた頃に体調を崩してしまいます。そうして、そのことをきっかけに地元へ戻ることに決め、父の新聞配達の仕事を手伝うことになります。

元々、楽しいことが大好きだった山下さん。
香美町に戻った後も「何かをしたい」という想いを持ち続けながらも、結婚や子育てもしながら、仕事に追われる日々が過ぎていきます。
そして新聞配達の仕事を続けて15年ほどした頃に山下さんが子供時代には7軒ほどあった佐津海岸の浜茶屋がたったの1軒になり、せっかく海水浴に来た人たちに楽しんでもらえる場所がなくなってしまっていました。
新聞配達の事業は人口減少や紙からインターネットへの変革が進む中でなかなか厳しい時代になっていくことが予想され、日頃から新たな事業展開を考えていた山下さん。こうなったら自分がやろうと浜茶屋「ヤマカフェ」を立ち上げます。
新たな決断をして準備を進める中、山下さんの父親が脳梗塞で倒れます。そうして夏場の浜茶屋「ヤマカフェ」のスタートと共に父親の新聞配達の事業も引き継ぐことになり、毎日を無我夢中で働きます。

新聞配達のお仕事は、夜中の2時頃に起き、朝6時半頃までには配達が終わる毎日です。
海開きとなる7月から夏休みが終わる8月末までの2ヶ月間は、佐津海岸にとって1年で1番の書き入れ時。週末には1000人近くの家族連れで賑わいます。
新聞配達の仕事もしながら、夏場の浜茶屋「ヤマカフェ」も大忙しの日々を重ね、気づけばコロナ禍の最中には佐津海岸の浜茶屋は「ヤマカフェ」のみになっていました。

暑い時期、佐津海岸の白い砂浜を目の前に、外のテラスにパラソルや椅子を置いて、海水浴のお客様と共に愛されてきた浜茶屋「ヤマカフェ」。忙しいお昼時や夕方までの日中営業と、ときどき民宿に来たお客さまたちとビアガーデンとして夜もイベント営業をしたりもしてきました。
そして昨年、古くからあった小屋を取り壊し、カフェ「ヤマカフェ」が新設されました。

今年の春からは、年中OPENをするようになった「ヤマカフェ」。
営業時間は10時半〜22時頃
水曜日以外は毎日営業を目指しているそうです。
まだまだ新聞配達のお仕事も忙しい中で、山下さんが体力の限界まで両立されている状況に、予約のない夜は開けられないことも時々あるのだとか。夜は、ご予約をいただくのが確実です。

取材日は天気がよかったため、「綺麗な海原を目の前に、コーヒーやお酒を楽しめて最高の場所ですね。」と言うと、「今日はいい日に来たけど、昨日は寒空でした。」と笑う山下さん。
冬の日本海の海は、冷たい風を想起しますが、そんな日は焚き火にあたりながら、おでんと熱燗を楽しむのも乙な空間です。

近くの廃校から、思い出の残った机に椅子、下駄箱や人体模型を引き継ぎ、お洒落さと共にノスタルジックな雰囲気も感じられる「ヤマカフェ」では、まずは地元の人たちが集まる場所を目指します。子どもから大人連れまで楽しめる季節ごとのイベントも随時企画されています。

スナックを長年営んできたお母様の人気メニュー絶品カレーは、地元のお野菜や但馬牛がふんだんに使われ、ヤマカフェでも大人気の逸品です。

子供の頃から地元で商売をされてきたご両親の後ろ姿を見ていた山下さん。そして、海水浴場では多くの観光客を迎え入れてきた山下さんだからこそ、できる地元と外からの人たちの交流拠点。
地域で長年積み重ねられた空気感と、外からの新しい情報が混ざり合い、新たな文化の香りがする場所ヤマカフェで、ぜひゆっくりとした時間をお過ごしください。

ハチ北ならではの多角的戦略による観光振興と本来の自然を生かした魅力溢れる地域づくり

ハチ北ならではの多角的戦略による観光振興と本来の自然を生かした魅力溢れる地域づくり

ハチ北観光協会
一般社団法人 ハチ北高原自然協会
代表理事 田丸明人さん

スキーやキャンプなどアウトドアアクティビティを思いっきり楽しめる自然豊かな村岡のリゾート地、ハチ北高原。
一般社団法人 ハチ北高原自然協会(以下「ハチ北観光協会」という)で代表理事を務める田丸明人さんは、道の駅 村岡ファームガーデンや但馬高原植物園など、たくさんのアイデアを活かしながら地域全体を盛り上げてきた仕掛け人です。今回はそんな田丸さんに観光協会の代表となるまでの経緯やハチ北の大自然を活かした活動についてなどたくさんのお話を聞かせていただきました。

香美町村岡区大笹地区は鉢伏山の北側に位置し、通称ハチ北高原(以下「ハチ北」)と呼ばれるスキーやスノボードで人気の西日本を代表する冬のリゾート地です。
ハチ北で生まれ育った田丸さん。しかし最初から観光の仕事をしていたわけではなく、大工仕事や建築物に興味があった田丸さんは建築士を目指して名古屋にある建築系の専門学校に進み、卒業後は近隣の建設会社に就職しました。
転機はそれから3年ほど建設業界で経験を積み建築士へのステップアップを目指そうというタイミングでした。
建築士になる前に一度思いっきりスキーをしたかったこともあり、長野県の信州にあるスキー場近くの宿屋でアルバイトを始めました。
そこでペンションという宿泊業態と出会いその面白さを知り、地元でもやってみたいと思うようになります。

その頃、美方郡に民宿は数多くありましたが、ペンションという形態の宿泊施設はまだ一軒もありませんでした。
そこで、田丸さんは25歳の時に思い切って地元に戻り、ハチ北で初のペンションを開業することにします。
一からペンションの経営を始めた田丸さん。
立地がそれほどよいところではなかったため、広報活動に力を入れたりリフト乗り場まで送迎をしたり、他の宿にはないサービスや工夫を重ねた結果、お客さまが徐々に来てくれるようになりました。
しかし、いくら宿屋だけ個人が頑張っていても、そもそもハチ北自体にもっと集客ができないとお客さまは増えないのだと感じ、地域をあげてなんとかしようと観光や地域づくりへの興味や関心が強くなりました。

そして、20代に観光協会に入り、38歳のときハチ北観光協会の会長になります。当時はまだ香美町として合併する前の村岡町時代で、ハチ北の代表として村岡の観光協会に顔を出していると、たちまち村岡観光協会の会長に抜擢されます。
そうして、活動する地域を広げながら観光を中心とした地域づくりに深く関わるようになりました。

田丸さんが村岡観光協会の支配人に就任した頃、村岡の豊かな植生がテーマの植物園をつくる計画が始まります。
その後、株式会社むらおか振興公社という第三セクターの社長に就任し、完成したたじま高原植物園とともに道の駅 村岡ファームガーデンの経営にも着手し始めます。
オープン当初、村岡ファームガーデンに並ぶお土産のほとんどが他所で作られたものばかりだったことに疑問を感じた田丸さんは、この土地で産まれたものでないと村岡のお土産とは言えないと思い、特産品開発や農業振興にも力を入れ出します。


(期間限定で但馬牛を放牧する大笹牧場)

植物園にある但馬牛レストランを訪れる観光客の中には但馬を「たじま」と読めない方も多かったそうで、但馬牛ブランドの認知度を広める取組みも展開します。
元々、神戸牛などのブランド和牛になる素牛用子牛の繁殖は盛んでも和牛ブランドとしては販売していなかった肉用牛の但馬牛(たじまうし)。神戸牛や松坂牛となる素牛を生産するOEMばかりではなく、ブランド和牛但馬牛(たじまぎゅう)として肉の生産とブランド化を進めました。
繁殖だけでなく肥育を含めた飼育に方針転換を行い、今では1000頭を超えるクオリティの高い但馬牛を飼育する畜産会社さんの牽引によって肥育農家さんも増えています。また、村岡では小豆が有名とのことで、棚田を利用し手作業によって種まきや収穫された色鮮やかな高級小豆として知られている美方大納言も「美方ルビー」ブランドとして成長させています。
赤字経営からV字回復をさせ、数々の特産品を広めてきた田丸さん。常にクビを覚悟しながらも戦略的に、時には強引にアイデアと行動力で実行し続けてきました。そして、2021年むらおか振興公社の社長を退任し、現在は農業を中心にハチ北観光協会からの地域づくりに注力しています。

※用語解説 
素牛・・・・・繁殖用または肉用として飼育される前の子牛
繁殖農家・・・繁殖牛を飼育して子牛を生ませ、子牛を素牛になるまで育てて出荷する農家(但馬牛)
肥育農家・・・肉牛の素牛を購入して飼育し、肉として出荷する農家(松坂牛や近江牛)
OEM・・・・委託者のブランド名の製品を受託して生産すること
但馬牛の子牛が各地に出荷され、神戸牛や松坂牛や近江牛というお肉になる。

地域資源をふんだんに活かした観光は貿易と一緒だと話します。
外資を稼ぎ、どう地域で循環させるか。

冬場のスキーシーズンにはたくさんの外資が落とされるハチ北ですが、夏場の観光は常に課題です。
そんな中で流行を敏感に捉えブームを生み出す田丸さんの発想力によってこれまでの経験を活かしながら楽しそうな取組みがどんどん展開されていきます。
コロナ禍時にはキャンプ場を流行りのオートキャンプ場としてPRし、冬場しか営業していなかったハチ北温泉も夏場は観光協会が営業しています。
土日や祝日、イベント開催時も温泉に入れるようになりました。
地名を知ってもらうために、村岡ダブルフルマラソンを開催し、常設コースを設置。ランニングという目的を作り温泉に入ってもらうことを狙います。
出産前の但馬牛を放牧する大笹牧場では6月〜10月の期間限定で但馬牛のガイド養成講座をプラチナ人材センターとして開催。
オートキャンプ場グリーンパークハチ北ではキャンプ場エリアに隣接するもののけの森が有名アニメに登場する神秘的な森のようだと大人気に。
もののけの森に整備されたワンダフルロードでは、愛犬と一緒に森の散策が楽しめます。
山の中に視界が広がる景色を作り、ハチ北の山々を一望できる見晴らしがいい高台には木の枝を使って鳥の巣のような展望台を設置。
キャンプ場から階段500段と急傾斜の道なき道を進む上級者向けのアスレチックアトラクションの鳥の巣展望台はインスタ映えスポットとして人気です。

ハチ北の地域では、飲み会がとても多いのだそう。住民が楽しく暮らせるように、楽しいところに人が集まって来る。そんなハチ北ならではの自然を活かして居心地のよい空間づくりを地域が一丸となって取り組みます。
ハチ北では絶滅危惧種のイヌワシの保護や鹿柵の整備、化成肥料を使わない農業など自然環境を守る取り組みを行っています。この地域にある本来の自然を豊かにしていくことで魅力を高め、それが人を惹きつける観光に繋がる。リゾート観光を軸にしてきたハチ北の地から、持続可能な地域社会を創りあげています。

皆が健康で元気でいられるよう低糖質お菓子に願いを込めて

皆が健康で元気でいられるよう低糖質お菓子に願いを込めて

香住区の柴山にある入江の目の前に、低糖質お菓子の専門店loving(ラビング)が佇んでいます。

週に2回、木曜日と日曜日にOPENされているこちらのお店には、近隣から手土産やおやつをお買い求めに来られる方、遠方から低糖質のお菓子を求めて来られる方など、次から次へとお客さまが訪れます。

お菓子を作り、販売されているのはlovingの店主、田淵香苗さん。
ご両親が経営されていた水産加工のお店の跡地を活用し、香住から健康と愛に溢れた世の中を目指して2年前にOPENしました。今回は病気を経験して苦しんだ経験からlovingをオープンする決意やこれからのlovingについてお話を伺いました。

歌のお姉さんに憧れていた香苗さんは、声楽を学ぼうと大阪の大学に進学しました。

しかし、在学中に体を壊してしまい、香住に戻ることになりました。
香住に戻り、ご両親の水産加工のお仕事をお手伝いしていた香苗さんは、「長靴を履いて蟹のセリに出たりもしていました」と笑います。

その後、神主をされている旦那さんとはボランティア活動で知り合い、隣の地区の神社にお嫁に行くことになりました。

神社の嫁としての日々は大変なことも多かったそうです。
妊娠してお子さんを授かってからは強い母親になりたいとの思いで、化粧品代理店の仕事を始められました。
元々は香苗さんのお母さまが水産加工の仕事をしながら知人に化粧品を販売していたそうです。それを受け継いで33年間仕事を続け、「この化粧品でないと」と言ってくださるお客さまが今でもおられるそうです。

子供が好きで歌のお姉さんに憧れていた夢は、大学で体を壊し辞めて帰ってきた時に諦めることとなりましたが、香住に帰ってきてから憧れていた仕事が小料理屋の女将さんです。
料理が好きで台所に立つことはちっとも苦ではなく、お菓子作りも趣味として楽しく行っていました。

そして、44歳の時、人生が一変する出来事が起こります。
乳癌が見つかり、手術と治療が始まりました。お医者さんから食事についてアドバイスをいただき、それまでストレス発散のために食べていたお菓子やパンなど甘いものは控えるようになり、玄米や野菜を中心とした食事を摂ったり、運動を行ったりと日々の生活を見直しました。

しかし、一度は完治した乳癌ですが、8年後に再発を宣告されます。
香苗さんは治療の副作用が強く出てしまう体質で、苦しみを乗り越えながら頑張ってきたことを、また1から始めないといけないのかと絶望の淵に立たされました。

そんな香苗さんを支えてくれたのが、ご家族の存在です。
「子どもたちには本当に悲しい思いをさせました」と香苗さんは当時のことを振り返ります。

1回目の癌がわかったとき高校生だった息子さんは、病気と闘う母親の姿を近くで見て、人の健康に従事する仕事に就きたいと考えるようになりました。
現在は運動だけでなく食事や健康に関する全面的な支援を行うパーソナルトレーニングと治療もできる健康増進施設を香住で運営されています。

2回目の治療を終えてからはご両親の介護などもしながら、息子さんの力も借りつつ、徹底した食事の管理や運動を行い、香苗さん自身の健康管理も追求するようになりました。

そして、60歳の節目の年に家族4人でお祝いにお伊勢参りに行かれた際に心に思ったことがありました。

これまで辛い思いもたくさんしてきたけれども、自分が経験してきたことでこれからの人生で誰かの役に立てることが何かできないだろうかと強く感じたそうです。

低糖質のお菓子のお店を始めようと思ったきっかけは、息子さんが運営するジムの利用者さんに手作りお菓子を提供した経験からでした。
徹底して糖質を使わない香苗さんのお菓子は、息子さんのジムでも大人気。
健康や美容を意識しているジムの利用者さんたちにとても喜ばれていたことを思い出し、自分のような病気で苦しんでいる方にも喜んでもらえるのではないかと考えたそうです。
健康志向の方、ダイエット中の方、美容を気にされる方からも求められるような健康的なお菓子を作ることで自分でも世の中のお役に立てることがあるかもしれない、そんな想いから香苗さんは低糖質お菓子のお店を開く決意をしました。

お店をオープンした当初はクッキーや焼き菓子など種類も少なかったので、前日に準備をすれば十分間に合いました。
しかし、病気で食べられない人のために食材を工夫してみたり、地元の食材を使ってみたりと様々な要望に応えるうちに品数はどんどん増え、香住の麹味噌や美方大納言小豆を使ったケーキやパンなど今ではショールームが一杯になるほどです。
普通のお菓子より作製に時間がかかるので、一つ一つ丁寧にいつも時間をかけてお店のお菓子をつくっているそうです。

lovingのお菓子は材料に砂糖と小麦粉を一切使っていません。
砂糖の代わりに植物由来の甘味料ラカント、小麦粉の代わりはアーモンドパウダー、おからパウダー、大豆粉を使用しています。
健康志向のお菓子と言えばパサパサして甘くなくあまり美味しくないイメージがありますが、lovingのお菓子は低糖質なのにしっとりと甘いのが特徴です。
健康のためだけでなく、ダイエットや美容に気を使われている方にも安心して召し上がっていただけます。

lovingのロゴマークはハートに横棒、そしてハートが閉じていないデザインは「愛を土台に、愛が溢れて広がりますように」そんな願いが込められています。
お菓子を食べた人の健康や幸せを心から祈って、この香住の地から愛がいっぱいに広がるように。
香苗さんは、辛い病気を経験したからこそ自分と同じ辛い思いをする人が少なくなるために普段から食事に気をつけ誰もが健康で元気であることを願っています。

香苗さんは店舗での販売の他に積極的なイベント出店も行なっています。1人だからできることも限られるけどlovingのお菓子が本当に必要な人に届くように配送サービスも展開したいそうで、Instagramでメッセージをもらえれば配送も対応可能とのことです。

明るく笑いながらパワフルに精力的に活動するその姿からは、死も覚悟するような大きな病気を乗り越え、人生をかけてお菓子を届ける香苗さんの愛が溢れ出ています。

低糖質お菓子の専門店 loving
住所:香美町香住区上計2-19
営業日:毎週木曜・日曜
営業時間:11:00〜17:00
※商品がなくなり次第終了
全国発送はInstagramのDMから
@20220415loving

地域の特産「香住梨」を守る若手農家の挑戦

地域の特産「香住梨」を守る若手農家の挑戦

地域おこし協力隊 梨生産業務 福井功一さん

地域おこし協力隊として、香美町に移住。香住の特産「梨」の生産業務を行いながら農林水産課でも働く福井功一さん。

全盛期には100軒近い生産者が支えていた香住梨の農家さんは、現在では40軒近くまで減少し、高齢化の課題も顕著です。

そんな中、梨農家としての就農を目指しながら任期満了となる3年目の地域おこし協力隊として日々の業務に励んでいる福井さんにお話をお伺いしました。

 

たどり着いた果樹栽培と観光農園

大阪の住宅地で生まれ育った福井さん。大学では森林や里山など環境や農の分野で学び、様々な分野で農業のインターンシップに参加しました。

路地栽培や工場内での水耕栽培など多様な農業を実際に体験していくうちに、自分にあっているものは果樹栽培なのだと感じるようになりました。

大学4回生のときに就活フェアで香美町と出会い、週末就農体験として梨農家さんのところにお手伝いに行きました。いろんなお話をする中で、香美町で梨農家をやってみたいという気持ちになりました。

しかし、いきなり梨農家としてやっていけるのか、体力面においても不安も大きく、また、教わっていた梨農家さんからも若いうちにもう少しまわりを見てきたらどうかと勧められたこともあり、まずは雇用就農で働くことを選択しました。

就職先を探す中で、経営方針や観光農園をやっているという点で合致する山口県の農業法人を見つけ、就職。

ぶどうと梨を主に栽培しており、住み込みで働きながらたくさんのことを学ばせていただきました。

精神面でも体力面でもだいぶ鍛えられたという福井さん。獣害の被害で木がまるまる一本ダメになってしまったり、木の抜根や植え替え、自分たちでハウスを建てる経験など、多くの知見を得ることができました。

そうして2年ほど働いた頃、大学時代にお世話になった香住の梨農家さんから、香美町で地域おこし協力隊として働かないかとお声がかかりました。梨の栽培は山の斜面を使って行われることも多く、農家さんの高齢化に伴い負担が大きく年々減少傾向にありました。

そんな中で福井さんのような若く梨農家を志してくれる人材は、とても貴重な存在です。

地域おこし協力隊として香美町に移住 

香美町に移住し、地域おこし協力隊としての任務をスタートした福井さん。

最初は農作業の業務と役場の業務とのバランスが難しく、苦労も多々ありました。

しかし、話し合いを重ねながら、梨農家としての業務を7-8割、役場での業務を2-3割程度で行うようにさせてもらい、3年目となる今年は、就農に向けた準備を着々と進めています。人が少なくなっている共同選果場を手伝いに行ったり、町やJAが行う「香住なしの学校」のお手伝いもしてきたりしてきました。

香住の梨は20世紀の品種が多く、昔は収穫時期や繁忙期に人を一度にたくさん集めて一気に作業したりという形で、栽培されていました。

しかし、現在ではなかなか人手が回らないことも多く、いろんな品種を植えてなるべく労力を均等化するよう工夫している農園も多くなってきています。

 

忘れられない感動の梨を目指して

梨の栽培は、梨の木の枝を落としたり、梨棚をつくり枝を這わせたり、袋を被せたり、日々の手入れが欠かせません。

栄養が木の隅々まで行き渡るように枝の先端を高くして括ったり、病気や虫が来ないように、美味しい梨を作るためには、年中の管理が必要です。

特に、今年はカメムシの被害が多く、また雨が少ないため実がなかなか太らずに、苦労したそうです。

高齢者の人が心が折れて辞めてしまう気持ちもわかると話す福井さん。

昨年は洪水による氾濫に園地が浸かり、危うく梨の実ギリギリのとこまで水が来たとのこと。それでも山口県で働いているときに食べた甘味と程よい酸味の梨の感動が忘れられず、その梨の味を求めて日々の作業に励みます。

 

香美町での暮らし

香美町の空き家バンクを活用し、戸建て住宅に住んでいる福井さん。

移住前に暮らしていた山口県では今よりも更に限界集落に近い場所での生活で、それに比べれば豊岡も近いので不便はなく、草刈りや防災訓練などの地域づきあいも色々な話ができて楽しく暮らせているとのこと。

梨農家さんは7、80代も多く、福井さんが農地を引き継ぐ梨農家さんも5,60年の梨を育てている大ベテラン。

地面の様子や天気によりどういう手入れをすればよいかというようなことを感覚的によくわかっているため、福井さんはその農家さんからもたくさんのことを教わっているそうです。

ゆくゆくは観光農園として、現地に来てもらい生の梨を食べてもらうことを目指して日々の農作業に励んでいる福井さんにとって、地域づきあいは目標に向かって協力してくれる仲間づくり関係性づくりの一環なのではないかと感じます。

長期的な視点で地域に溶け込む

福井さんが最初に香美町に出会ったのは大学生の頃。そこですぐに香美町に来るという選択肢もありました。

しかし、何度も通い農家さんと話をする中で、一旦は他のやり方も学び、地域おこし協力隊という受け皿ができてから移住という形を取りました。そうすることで、割と反発も少なく、お互いに負担がなくやって来れたのではないかと話します。

何事もゆっくりと進めることが大事。地域では、物事を進めていく前に顔を合わせ時間を共有することの方が重要な場合も多々あります。

いきなり移住を決めるのではなく、まずは足を運び現地の人たちと話をすることで理想との誤差が縮まり、地域にとっても移住者にとってもより良い形になるのではないかと福井さんは考えています。

山口県での学びを活かし、ゆくゆくは雇用もしながら観光農園を広げていきたいと語る福井さん。

そのためにもまずは香住梨の付加価値を高め、これ以上の規模を縮小させないようにしたいと決意されています。香住の特産「梨」の未来を背負い、若き農家が1人立ちへの離陸を始めています。

「数年前と比べて変化した僕たちの暮らし」

「数年前と比べて変化した僕たちの暮らし」

一般社団法人HiCO-BAY 伊藤 達巧さん

スタジオ K1 正垣 亮治郎さん

当サイトで4年前にそれぞれインタビューを受けた二人。あれから仕事や環境が変わり、地元への意識も変わったと言います。どのような変化があったのでしょうか。

(過去の記事)

正垣亮治郎さん
https://kamicho-ijyu.com/konwakai/

伊藤達巧さん
https://kamicho-ijyu.com/t_ito/

-まず、前回のインタビューから変わったところを教えてください

正垣:4年前の時点では香美町役場に勤めていたのですがあの後退職し、県外の映像制作会社に転職しました。その後、2022年に地元へUターンして映像制作の事業をスタートしました。今では企業のPR動画やYoutubeのコンテンツ制作のため企画・撮影・編集などを請け負っています。

伊藤:僕も転職しました。以前は保育士でしたが今は一般社団法人を設立し、 理事を勤めています。内容は多岐にわたり、法人事業として移住相談や空き地空き家などの利活用、個人事業としてアウトドアインストラクターや音楽活動などをしています。

正垣:仕事内容は大きく変わりましたが、実は仕事を回してくれるのは地元の知人・友人や、前職で知り合った人たちです。だから仕事で関わりがある人はあまり変わっていません。動画編集も元々趣味でやっていたことを仕事にしました。今は好きなことで生活できているので幸せだなと感じています。

伊藤:そうなんだよね。僕も以前は保育士をしながら趣味でまちづくりイベントや音楽活動をしていましたが、今はそれを仕事としてやるようになりました。地域の人との関わりは変わらず続いていますし、やってることはあまり変わっていないのかもしれません (笑)。都会で働きたいと思ったこともないですし、やっぱり地元が好きですね。

-地元・香美町への意識の変化はありましたか?

正垣:以前は「地域貢献」という言葉をとても意識していました。自分にできることは何か、地元の人に喜ばれるのは何か、移住者を増やすためには何をしたらいいのか、など考えていました。でも今は、一周回って力が抜けて「ここに住んで仕事していること自体が地域貢献なんじゃないか」と思うようになりました。

正垣:僕は結婚して子供もいますが、昔と違ってこの町で子育てすること自体が地域貢献だと思うようになりました。近くには両親もいてサポートもしてくれるので、頼れる人が近くにいるのは本当に恵まれていてありがたいことだと実感しています。地元の環境は大好きなので、このまま地元で育てていきたいです。

伊藤:僕はそれほど地元にこだわっているわけではないですが、仕事も生活も今いる場所で、まずは自分が楽しめることが一番だと思います。DJとして始めたキッズディスコは4年目になり、子どもから大人まで幅広い世代の人たちがイベントを楽しんでくれています。

僕は音楽を通して楽しむきっかけづくりができたらいいなと考えています。もちろん地域の人の意見を聞いて、町に対する問題意識もありますが、それぞれが自分の役割を果たすことで結果的にまちづくりに繋がると思います。僕の行動原理は「楽しいこと」。こだわりはそこだけです(笑)。

正垣:自分が面白いと思うまちづくりをすればいいので、もっと自分本位でいいと思います。

伊藤:「都会に出ないと面白くない」というわけではないので、やっぱり自分次第だと思います。

-田舎での出会いについて教えてください。

正垣:僕は結婚していますが、実は妻は関東の人です。音楽がきっかけで知り合いました。結構レアなパターンだと思います。正直、結婚前はなかなか出会いがなくて苦戦していました。マッチングアプリを使って、もし知り合いに当たったら気まずいですし(笑)。基本、引きこもりタイプなので若い時は苦労しました。

伊藤:出会いに関して、僕はあまり苦労した経験がないですね。あちこちイベントで動き回っていたので、友達や知り合いはたくさんできましたから。 もちろんそこから発展するかは別問題ですが(笑)

正垣: なんかカッコいいな(笑)。僕たちの周りの人たちは学生からの付き合いや、会社での出会いが多いと思います。田舎の人だと25~26歳くらいで結婚する人が多いイ メージです。俺たちはもう30歳前後だから遅いくらいです(笑)。

伊藤 :地元で見つけようとするよりもっと広範囲で考えた方が出会いは広がると思います。音楽フェスにもたくさんの人が来るし、人が集まるところには必ず出会いはあります。

正垣:で、今は彼女いるの? 結婚するの?

伊藤:それはノーコメントだよ(笑)。

-未来の夢や、今後やりたいことはありますか?

正垣:しばらくは子供を健全に育てることに集中します。せっかく自由がきく仕事を選んでいるので、ワークライフバランスを考えながら地元で子育てを楽しみたいです。

伊藤:僕は地元にもっと遊ぶところを増やしたいと考えています。駅の待合室、廃校、手入れが行き届いてない空き地や空き家などきちんと整備して活用していきたいです。自分のため、子育て世代の人のため、大切な人のためにみんなが集まって遊べるところを増やして、自慢できる場所にしていきたいです。

-最後に香美町に移住を考えている人にメッセージをお願いします。

正垣:僕は地元民ですが、地元の人の情報で空き家を紹介していただき、空き家バンク制度を使って今の家を見つけました。空き家は山ほどあるし、住むところはすぐに見つかると思います。移住ブームは落ち着きましたが、だからこそ狙い目だと思います。

伊藤:仕事に関しては、町内で無理やり探さなくても大丈夫だと思っています。近隣の豊岡市や鳥取市まで車で30分から45分程度なので十分通勤圏内です。近隣の町で働く選択肢も入れると、移住についての考えが少し軽くなり、 視野が広がると思います。

地元での仕事は人とのご縁で紹介してもらえることが多いので、できれば移住前から地域の人と関わって欲しいですね。僕は移住相談も受けているのでお気軽に相談してください。

お二人のインタビュー動画もぜひご覧ください。

大阪から「あの味」を求めて村岡に来たくなる、忘れられないラーメン

大阪から「あの味」を求めて村岡に来たくなる、忘れられないラーメン

大阪市福島区の焼肉店の中で営業していた人気ラーメン店が2022年10月に香美町村岡区にオープンしました。その名も「いっせーのーで 村岡店」。開店日にはご近所の人だけではなく、遠方からも多くの人たちが足を運びます。店主の西村一生さんは、村岡生まれの村岡育ち。大阪で6年間ラーメンの修行をし、満を持して地元村岡にお店をオープンしました。今も大阪と村岡の二拠点生活を送る一生さんと、妻の紗弥嘉さやかさんに、今の暮らしとこれまでの歩みを伺いました。

 

四季折々の風景と絶品ラーメンを味わう、村岡の古民家ラーメン店

北近畿豊岡自動車道八鹿氷ノ山インターから国道9号線沿いに車を走らせると、紅白ちょうちんとのれんがかけられた大きな古民家が目に入ります。「いっせーのーで 村岡店」は、一生さんのご実家の向かいにある古民家を改装して開店しました。引き戸を開けて広々とした店内に入ると、立派な墨書の屏風が目に入ります。

店内は広々とした空間で、テーブル席、カウンター席、座敷席にキッズスペースまで完備。窓際のカウンター席からは湯舟川を見下ろす四季折々の風景が楽しめます。メニューは、ラーメンや餃子、ごはんものはもちろん、但馬牛のバラ焼きやホルモン焼きなどの鉄板焼肉もあり、焼肉とお酒を楽しんだ後に〆のラーメンを頼むという最高の楽しみ方もできます。

提供するラーメンは、地元香美町・村岡ならではの素材を取り入れつつ、焼肉屋の間借りで営業していたころからの他にはないラインナップが目を引きます。一番人気は「ニボ牛(ぎゅう)中華そば」。ラーメンのベースは牛骨ではなく、なんと牛スジ。牛スジに煮干しをあわせたスープは、一口飲むと和牛の旨みが広がり、甘じょっぱさとコク深さがクセになります。それでいてどこかあっさり感もある、のどごしの良さが魅力のスープです。

(ニボ牛中華そば 税込み900円)

たっぷりの牛スジと大きめに切られたネギが食べごたえ抜群。つるっとした食感の麺にスープが絡んで箸が止まらなくなります。

香美町ならではのラーメンが食べたい!という人に人気なのが「香住カニ白湯(ぱいたん)ラーメン」。その名の通り、香住のカニのエキスをたっぷりと使い、アオサやナルトも入った海の香りがたっぷり感じられるスープが魅力です。一口飲むとカニの柔らかい甘みある出汁の風味が広がります。

(香住カニ白湯(ぱいたん)ラーメン 税込み950円)

厚みのある豚バラ肉と柔らかくあっさりした鶏胸肉の二種類のチャーシューがトッピングされ、あっさりしているのにボリュームもたっぷり。本物のカニを使った贅沢なラーメンスープは、お客様からの評判も上々です。

 

大阪と村岡・二拠点生活で地元の魅力を広める

大阪市福島区で人気だったあの味が、香美町村岡で食べられると評判の「いっせーのーで 村岡店」。大阪から高速を乗り継ぎ2時間半かけて来店したり、バスツアーを利用して来られたりと、前のお店からの熱烈なファンの方も訪れ、営業日は大いに賑わいます。なぜ、一生さんは人気だった大阪のお店を閉め、地元村岡で新しくお店を開いたのでしょうか。

(右 西村一生さん 左 紗弥嘉さん)

村岡で生まれ育った一生さんは、大学卒業後、地元で就職。同年代や自分より年下の世代がどんどん減っていく現状に危機感をもち、またお世話になった地元の人達にお礼をしたいという気持ちから、いつしか「自分のできることで、この地元を盛り上げたい」と志すようになりました。ラーメンの食べ歩きが好きだった一生さんは、「自分の好きなラーメンだったら地元に恩返しができるかもしれない」と思い立ち、慣れ親しんだ地元を離れてラーメン修行のため大阪へ。6年間修行する中で、一度もふるさとのことを忘れたことはなかったと言います。

修行先のお店で紗弥嘉さんと出会い、結婚。いつか村岡で自分の店を持ちたいという夢に向かって二人三脚で進み始めました。やがて新装開店の焼肉屋さんにアルバイトに誘われ、お二人の志を知っていたというオーナーから「半年間焼肉屋の昼ごはんとして、自分たちのラーメンを出してみないか」と声がかかります。それが、福島区で人気だった「いっせーのーで 福島店」の始まりです。半年間、お客様の反応を間近に感じながら、地元の食材で作ったラーメンで地元のPRもして、気に入ってくださった方にはぜひ村岡に来てもらいたいと、楽しく懸命に営業してきました。また、地元村岡での開業準備も並行し、物件を探し始めたちょうどのその時。実家の向かいの大きな古民家が空き家バンクに登録されるというタイミングにも恵まれ、開店準備は順調に進みました。地元の人から「よく帰ってきてくれた」「がんばってよ」と温かい声援を受けたことは、一生さんたちの大きな力になりました。

2022年10月末に村岡店をオープンし、月曜から土曜の昼までは福島店で、土曜夜と日曜日は村岡店で休みなく営業してきました。福島店は惜しまれながらも2022年末で閉店となりましたが、2023年春からは村岡店の営業日を金曜、土曜、日曜に増やしました。そして現在も平日は大阪の焼肉店で働き、週末は村岡店を開けるという二拠点生活を続けています。二拠点生活を続けているのは、地元のPRも兼ねてのこと。週末に村岡に来て貰える人を増やすため、平日は阪神間に向けて村岡での活動を伝え、阪神間の多くのお客様が村岡に来てくださることを目標としています。大阪府大阪市で育った紗弥嘉さんは、「もともと田舎というものが自分になかったので、田舎ができたのがうれしい。子どもにも、平日は都会で、休日は田舎でのびのび遊ぶという、いい経験をさせてあげられているかなと思います」と、この生活に前向きな様子。休みのない、忙しい毎日ですが、村岡をもっと盛り上げるため、夫婦二人三脚で取り組んでいます。

「美味しかった、また来るよ」の言葉をもらえた時が一番嬉しいと話す一生さん。「いっせーのーで 村岡店」そして村岡、但馬を盛り上げるためにまだまだやらないといけないことがあるとのこと。アーティストを招いて古民家ライブを開催したり、地元の子供会のクリスマス会にラーメンを提供したりと、単なる「ラーメン屋さん」の枠を超えた活動も展開しています。「村岡の良さはやっぱり人が温かいところと、四季折々を感じられるところ。何もないと思えるようなところが、逆に良さだと思っています」。村岡に一人でも多くの人が来て、「良さ」を肌で感じてもらえるよう、一生さんたちの挑戦はまだまだ続きます。

※いっせーのーで 村岡店は冬季休業中。再開は2024年4月20日(土)の予定です。2024年の営業は土曜日、日曜日、月曜日の祝日、 GW、お盆休みの夏季営業を予定しています。

 

 

「若い人が戻ってきても楽しめる町に」 森 茂樹さん

「若い人が戻ってきても楽しめる町に」 森 茂樹さん

「手作り」の楽しさ

スーパーなどでもたくさんの種類が陳列されている味噌や米こうじですが、香住には古くから「本物の手作り」にこだわった味噌づくり、米こうじづくりをしているお店があります。

明治9年創業の「森新屋」さん、元々は醤油屋だったのが、醤油の大豆から味噌づくりを始めたことがきっかけで評判となり、顧客が広がっていきました。

近年、お湯に浸すとすぐに溶ける味噌が市販され始めたことや、味噌づくりをご家庭でされる方が増えたことにより、米こうじの需要が高まり、お店での製造は次第に米こうじが主流となってきたそうです。そんな中でも「森新屋」さんの味噌づくりの豆は北海道の大豆、米こうじのお米は一等米のみを使用し、正真正銘の「手作り」にこだわりがあります。

「今は母親とほぼ2人でなんとかやってるけど、年間でだいたいこうじが8〜9トン、味噌は7トンほどかなぁ。家族経営にしては多い方だと思う」

そう話してくれるのは代表の森茂樹さん。香住生まれの香住育ち。

高校卒業後、食品関連の学校へ進学のため大阪に2年、その後東京へ。一旦香住に2年ほど戻ったが、やりたいことが見つかり、再び東京で4年。結婚を機に帰郷し、家業を継ぐことに。

「カニで景気がいい時に一旦帰ってきてるから、その頃とのギャップが大きかった覚えがある」

再帰郷した時から、どんどん町の人口も減り始め、最近10年で急にお店も無くなり、活気がなくなってきているのを感じるという。

「こうじづくりって楽しいよ。ほぼ毎日おんなじ仕事しとるけど、毎日できるこうじが違ってくる。最近は温暖化なのか、発酵が早い気がして、黒くなってくるのが特に早い。こうじ菌を使い分けたり、菌力の違いを利用して変色を防いだりと年間通して味が変わらないようには工夫してる。その変化に合わせた工夫にちゃんと応えてくれるのが楽しい。『生き物』を扱ってるって感じっていうのかなぁ」

味噌こうじ屋さんは「納豆菌」が天敵とのこと。納豆菌があるとこうじ菌が豆に付かなくなるそうです。「納豆菌って飛散するのよ。だから、ウチは仕事が終わった夕方以降しか納豆は食べちゃダメ!って、娘にはいつも言ってる」

明治から代々やってきたお店だが、事業承継は今のところ何も考えていないという。

 

「嘘」が「真」に

森さんは味噌こうじづくりの傍ら、趣味なのか副業なのか、結婚式や各種音楽イベントのPA(音響)の仕事もされています。

「東京にいる頃、イベント関連の仕事をしていたけど、そこらへんから音楽には興味あって。きっかけはある『冗談』から始まったんだけど」

あるお店で、プロミュージシャンのライブの打ち上げに参加した際、友達が冗談で「コイツPAできるんですよ」と言うので、自分も「あぁ、任せてください」と嘘を言ったら、3ヶ月後、本当にPAの依頼がきてしまい、慌てて必死で勉強して覚えたそうです。

「あっさり見破られてたけどね。でもそれがきっかけでPAできる人ってのが広がって」

帰郷後、「PAができる森さん」が口コミで広がったのはいいものの、機材を自分で揃える必要もあり、最初は赤字続きで大変だったとか。

しかし、結婚式場のPAという決まった仕事が来るようになったので、たとえ予算がなくてもPAが必要なイベントにも、スケジュールが空いていれば、言い値で出向くようになったとのこと。

「音楽のPAは楽しいけど、結婚式は毎回緊張するなぁ。やり直しがきかないからなぁ」

そんなPAの仕事も、新型コロナウィルスの感染拡大をきっかけに結婚式の仕事も激減し、年間40件あった予約も39件キャンセルに。

「コロナから結婚式自体もスタイルが変わってきて、家族だけ、身内だけになって、披露宴をしないパターンもある。祭りやイベントも減って、寂しくなってきてるなぁ」

しかしそこは好奇心旺盛な性格の森さん。最近は打ち込み音楽制作の仕事にも興味を持ち、これから勉強していきたいと意欲的。若い世代にも人気のPA森さん。これからもいろいろなイベントを通して、音楽で溢れる但馬に貢献してもらいたいです。

 

きっかけは一枚の写真

2度目のUターンから22年。

「今にして思えば、帰ってきたかったのは、一枚の写真がきっかけなのよね。」と見せていただいたのは、幼い子どもが川辺で遊んでいる写真。

「母親が山とか川とか海が好きで、よく川遊びしていた。やっぱ森とか海とか、自然はおもろいと思う。だから、自然環境のいいところで子育てがしたかった。自分が育ってきた経験と同じことを子ども達にも経験してほしい。自然の中で子育てするには、香住はとても適したところだと思う」と。

さらに「香美町は満18歳まで医療費が免除されるってスゴい、都会ではありえないような制度」という。

「東京にいる頃、イベント関連で割と華やかな場所で仕事してたから、そういう場所に飽きてきて、プライベートではバドミントンや手話のボランティアも興味があってやっていた。香住に帰ってきた時も、そういう集まりがないか探したよ。」自然と触れ合う機会が少なかったという東京時代でも興味のある世界に飛び込んでみる森さんの性格は、今も変わってないようです。

「Uターンして帰ってきたら、商工会青年部やら消防やら祭りやら、子供がいればPTAやら、確かにやることは多いと思う。けど、やっぱり実家のある土地って思い入れが違う。都会に出て行った友達も、Uターンで帰ってきたかったそうで、住むところを探してたけど、香美町はUターンよりもIターン向けの支援がいいみたいで、結局、他の町に住んだって言ってたなぁ。Uターンを促すようなのもやってほしい。」

今や人口減少は全国的に歯止めが効かず「発展」どころか「現状維持」すらも難しくなってきている市町が、ほとんどと言われています。思い入れのある土地だからこそ、萎んでいく町の将来が自然と心配になります。生まれ育った土地で、都会で学んだ自分ができることを探してみる。町を離れた一人一人がそんな意識を持って帰郷してくれば、自ずと町も徐々に変化していくのかもしれません。

「今は、都会だけでなく田舎でできることも増えていると思う。仕事の環境というかスタイルも変わってきてる。田舎にも夢を叶えられる場所があると思う。若い人が戻ってきても楽しめる町にしたいね!」

 「トレンドは田舎にある」と言われる昨今。年齢は関係なく、都会に飽きて、香美町を思い出す人が、1人でも多くUターンできる町であってほしいと、毎日こうじを作ったり、イベントを手伝ったりしながら、そんなことを日々願っている森さんです。

 

(町民ライター 池本大志)

教育×田舎暮らし。村岡高校の教育コーディネーターとして

教育×田舎暮らし。村岡高校の教育コーディネーターとして

2021年10月、神奈川県から香美町に移住してきた髙橋大蔵さん。現在は香美町地域おこし協力隊として、村岡高校の教育コーディネーターをしています。縁もゆかりもなかった香美町に移住し、教育の仕事に取り組む髙橋さんに、これまでの歩みとこれからの展望についてお伺いしました。

 

「田舎の教育現場を見てみたい」という思いで地域おこし協力隊に

髙橋さんは神奈川県で生まれ育ち、東京都の大学を卒業後、不動産管理会社に就職しました。5年ほどの勤務経験の中で、営業職に魅力を感じた髙橋さん。しかしながら、「より人と関わり、人の喜ぶ姿を間近に見られる仕事をしたい」と思い、教育の世界に飛び込みました。その後、学習塾で教室長を務め、様々な子どもたちの成長を見守るうち、教育の仕事の魅力を実感したといいます。また、ずっと神奈川県と東京都で暮らしてきた髙橋さんには、田舎への漠然とした憧れがありました。田舎で教育に関わる仕事ができないか、そう考えていた髙橋さんが地域おこし協力隊について色々と調べて魅力を感じたのが、香美町にある村岡高校の教育コーディネーターでした。

2021年当時は、コロナ禍の真っ只中。オンラインで面接を受け、トントン拍子に話が決まりました。住まいは、WONDER KAMIの空き家バンクを利用し、オンライン内見をして決定。教室長を務める塾の子どもたちからも応援を受け、初めての田舎暮らしに挑戦しました。それまでペーパードライバーだったという髙橋さんですが、香美町はいわゆる車社会。夜道に鹿がよく現れることや2021年・22年の冬に雪が多かったことは、生活面で大きなギャップでした。住み始めた空き家にはエアコンがなく、寒さ対策にも一苦労。それでも実際に村岡区で暮らしてみると、「生活するのに必要なものはそれほど多くない」という気づきもありました。必要なものは通信販売を利用するなど、買い物に関する不便さを感じることはほとんどないと言います。近くにスポーツジムはないので、自宅に器具を設置しオリジナルのトレーニングルームを作りました。近所に一つでも映画館があれば……と思うことはありますが、香美町での暮らしは、食べるものが美味しく、四季の移り変わりを感じられる暮らしを贅沢に味わうことができ、充実した日々だと語ってくれました。

教育コーディネーターとして、地域を学ぶ子どもたちと関わる

 

村岡高校は兵庫県の第5学区(豊岡市、美方郡、養父市、朝来市)に所属しますが、平成26年新設された「地域アウトドアスポーツ類型」には全国から出願することが可能です。地域アウトドアスポーツ類型は、「地域創造系」と「アウトドアスポーツ系」の2つのコースに分かれています。その中でも教育コーディネーターが関わるのは「地域創造系」の生徒たちです。

地域創造系の生徒は、地域をよりよく知るための基礎的な知識、地域を知るための聞き取り調査や課題探求などを行います。卒業に向けては、課題解決の方法を冊子にまとめ、地域に向けて発信。地域の人との交流や人前で自分の意見を述べる機会が豊富にあります。

村岡高校の教育コーディネーターは、村岡高校に常駐し、地域の教育資源を掘り起こし、学校や地域関係者等と協力しながら「地域づくり」「人づくり」の教育実践や教育支援を行う役割を担います。総合的な探究の時間等の企画及び連絡調整、村岡高校が地域イベントへ参画する際のつなぎ役、地域の若者や地域の小中が連携した活動のコーディネートなど、その活動内容は多岐にわたります。特に鳥取大学地域学部とは密に連携を行い、鳥取大学の先生を招いて地域学を学ぶ際の調整役を担うほか、ジオパークと海の文化館の館長など、地元講師も含めた外部講師の方々と連携して授業を形作っていくことも大きな役割の一つです。

関東で関わってきた子どもたちと比べて、「村岡高校の生徒たちには、当初、やや恥ずかしがり屋な印象を受けた」という髙橋さん。それでも地域創造系の取り組みを通して、自分たちの学びを発表する機会が増えるにつれ、どんどん自信をつけていく生徒たちの様子には大きな成長を感じました。教師とはまた違う、サポーターとして並列的に関わる髙橋さんのような存在がいることも、生徒たちにとって新しい出会いであり刺激になっているようです。

これからも地域での教育に関わりたい。髙橋さんの展望

 

平日昼間は村岡高校の教育コーディネーターとして活躍する髙橋さん。夜間や休日は、前職の経験を生かして地域やオンラインでの家庭教師も務めています。地域では、それぞれの児童・生徒たちの学びの希望に合わせて、個別できめ細やかなサポートを行っています。オンラインの家庭教師としては、都市部の子どもたちを中心にzoomを活用して個別のサポートを行っています。オンライン学習の発展により、移住後も得意なことを生かして働き続けることができています。

教育コーディネーターとしての任期は2024年9月末まで。それ以降の展望を尋ねると、「しばらくこの但馬地域で、地域の教育に携わっていきたい」とのこと。ここで暮らす子どもたちに良質な学びの機会と、より良い学習環境を提供できるよう、任期後も家庭教師などを続けながら、自分にフィットした形を見つけていきたいと考えています。

学校名   兵庫県立村岡高等学校

TEL       0796-94-0202

所在地   兵庫県美方郡香美町村岡区村岡2931

HP         https://www2.hyogo-c.ed.jp/weblog2/muraoka-hs

移住のリアルドキュメンタリーをYouTubeで発信!

移住のリアルドキュメンタリーをYouTubeで発信!

香美町小代区に、2023年に引っ越してきた武内琉稀さん、野間真拓さん、岸本桂さん。生まれも育ちもそれぞれに違う三人がひょんなことから地方移住を志し、香美町にやってきました。地方移住というキーワードはどこから出てきたのか、そして移住先がなぜ小代だったのか…。今回はシェアハウスをして暮らす三人のうち、武内琉稀さん、野間真拓さんのお二人にお話を伺いました。

左から、野間真拓さん、武内琉稀さん

 

 

YouTube撮影のために地方移住決定、ウェブサイトとデータ分析で香美町を選択。

 

武内さんは滋賀県出身、野間さんは兵庫県神戸市出身で、大学の同級生でした。大学卒業後、武内さんは就職し、野間さんは大学院へ進学しました。子どもの頃から動画編集に興味を持っていたという武内さんは、映像を作る仕事ができたらと漠然と考えていたといいます。一度は映像と無関係の仕事に正社員として登用されましたが、働く中でどうしても映像に対する想いを断ち切ることができず、思い切って仕事をやめ、動画編集を学ぶスクールに入校。YouTuberとして活動をはじめました。友人の一大チャレンジを知った当時大学院生の野間さんは、武内さんが発信する動画を見て、「もっと彼らの良さを出せるコンテンツが他にあるのでは」と感じたと言います。当時武内さんたちが発信していた中心的なコンテンツは、関西のカフェやお店などのおすすめスポットを紹介するものでした。「それよりも、もっと武内の人を巻き込む性格が生きる場所、誰かの力になれる、武内らしさを出せる場所がないかと考えたとき、都市部じゃなくて地方がいいんじゃないかと思って」、移住というキーワードは、野間さんから発案されたものでした。それが昨年、2022年9月のことです。

移住先を選ぶに当たり、全国の自治体のウェブサイトを調べるなかで、武内さんはこの「WONDER KAMI」のサイトにたどり着きました。「暮らしを聞く」インタビューを見て、個性的な方たちが移住していることを知り、記事を読むほどに香美町に住んでみたいという気持ちが高まったと言います。フィーリングで香美町に惹かれていた武内さんに、野間さんはデータ分析を勧めます。全国のありとあらゆる古民家データベースをエクセルで表にし、チェックポイントを設け、野間さんと武内さんそれぞれに点数をつけ、点数順にソートしました。データ分析の結果も香美町が上位になったので、まずは物件を見に行くことに。「WONDER KAMI」の「住む」のページで物件の目星をつけ、5軒を一気に内覧しました。

 

現在3人が暮らす物件

 

5軒の物件は、香住、村岡、小代とバラバラでした。その中で今の小代の物件に住むことになった決め手の一つは、「公道に面している」こと。雪国育ちではない武内さんたちにとって、雪の多い香美町に暮らすのは少々ハードルの高いことでした。私道に面している物件では、道路の除雪は個々に行わないといけませんが、公道であれば除雪車が入ってくれます。厳しい冬を少しでも快適に過ごすには、公道に面しているというのは好条件です。その他にも、低コストであること、下水が整備されていることなども物件選びの決め手になりました。

 

リゾートバイトと、共同生活のはじまり

 

その後は、野間さんが大学院を卒業する2023年の春に合わせて移住を計画。野間さんはシステムエンジニアの仕事で内定が出ており、同じ会社に同期として入る岸本さんと知り合います。岸本さんと野間さんは社外でも会うようになり、ともに勉強会などをしていましたが、野間さんが「4月からは香美町に住むので、これまでのように勉強会はできない」と伝えると、岸本さんから「僕も行ってみたい」との一言が。こうして、武内さん、野間さん、岸本さんは2023年春から小代のこの物件で共同生活を始めることになりました。

 

共同生活は春からでしたが、武内さんは2人に先駆け、2023年1月末から香美町で生活していました。スキー場で働き、スキー場のホテルで仮住まいをしながら、空き家の購入手続きなども勧めてきました。3月に小代にある現在の物件に入居し、スキー場の営業が終わってからは、昼間は地域のガソリンスタンドで働き、休日や夜はYouTubeの撮影・編集に勤しんでいます。野間さん、岸本さんは3月に合流し、現在は在宅ワーカーとしてシステムエンジニアの仕事に取り組んでいます。

 

温かくパワーのある人達との出会いで、発信がより豊かに

 

移住したことで、武内さんたちのYouTubeチャンネルは臨場感、体当たり感が増し、視聴者の共感をより得やすいものになりました。また武内さんも、「生活しているだけであちこちにネタが転がっているので動画にしやすい」と話します。

動画の引き出しが増えたこと以外にも、香美町に移住して良かったと感じることはあります。それは周りの人が温かく手を差し伸べてくれるということ。近くにある「スミノヤゲストハウス」には面白い人達が次々に集まり、いろいろなことを話し、教えてくれるので大いに刺激を受けています。あっという間に物事を動かすパワーがある小代の人達は、人当たりがよく気さくで、温かさを感じるといいます。

 

※スミノヤゲストハウス関連記事

田尻茜さんインタビュー

ド田舎暮らしオジロちゃんねるインタビュー

 

縁もゆかりもない場所に移住することは不安がありますが、知らない人を受け入れる地元の人にも不安はあるかもしれません。武内さんは近隣の人に出会い挨拶するときには「自分はYouTubeをしているので、カメラを回してうろうろすることがあります」と全て伝えてきました。自分のことを伝えるだけでなく、相手がどういう人なのかにも耳を傾けることも大切にしています。会話を深めて理解してもらっているので、今は不自由なくYouTubeの撮影ができているそうです。勤めているガソリンスタンドのお客様からも「YouTube見たよ」と声をかけられることが増えてきました。

 

畑についても、やってみたいという思いはありつつなかなか手を出せずにいた武内さん。区長さんに何気なくその話をしたところ、すぐに畑を紹介してもらえました。畑の前で区長さんと話していると、周りの人たちもどんどん集まってきて、「じゃあ今からこの土を耕すか」と話が進み、その場で耕運機が入りました。そして、それぞれに家にある種や苗を持ち寄り、トマト、きゅうり、オクラなど13~4種類の作物を育てることに。一言区長さんに話してから作物を植え終わるまで、たったの一日で物事が進んだというのだから驚きです。

 

村の方の協力で一気に始まり、進んだ畑仕事。農業については、指導してくれる地元の人がいて、武内さんたちは「師匠」と仰いでいます。収穫できる時期になると、在宅ワークをしている野間さん、岸本さんのところに師匠から「とれ頃だ」という情報が届き、初めての夏野菜育ては成功を収めました。採れたての野菜を天ぷらにして食べると、味の違いに感動。若い男性3人がお腹いっぱい、大満足になるほどの野菜が取れ、心もお腹も満たされました。

 

 

慣れない田舎暮らしを奮闘しながら楽しみ、発信し続ける武内さん。YouTubeは、移住を考えている同年代の方を中心に幅広く、ほっこり楽しんでもらいたいと考えています。撮影を通して地域を知るごとに、この地域にはすごいものを持っていても、外に発信する仕方を知らない人も多くいることに気づきました。YouTubeでは今後、地域にあるすごい人、すごいものをどんどんお届けできればと考えています。広大な風景だからこそ似合う、ピザ窯やウッドデッキ、サウナなどやってみたいことも多々あります。香美町に移住するまでの葛藤、移住してからの奮闘は武内さんのYouTubeで配信されていますので、この挑戦の続きはぜひ、YouTubeでご覧ください。