外からの風と地元の力がハチ北を面白く

外からの風と地元の力がハチ北を面白く

冬季には10万人を超えるスキー客が訪れる関西最大級のスキー場を有する鉢伏山の北側にあるハチ北。
中心部である香美町村岡区大笹の地域は冬場には旅館や民宿、ペンションなどが立ち並び、暮らしと観光が隣接する約40戸ほどの小さな集落です。

近年この小さな集落では地域の魅力に惹かれた移住者が増え、
地元の人たちと移住者の力が掛け合わさり、新しい動きが次々と起きています。

今回はそんなハチ北に移住され「香美町みんなのこども食堂」を営む畑中もゆるさん。
以前にも取材をさせていただいた「ハチ北ミュージックフェス」を開催するムッティーさんこと村田行信さん。
そして、ハチ北で生まれ育ち、現在は香美町役場に勤務される村岡区大笹出身の西谷勇祐さんにお話をお聞きしました。

 

人生の中で想定外。スキーに来たご縁からの移住。

大阪出身の畑中さんは、老舗大手百貨店に10年ほど勤められ、イベント運営を経験したり個人事業としてお料理教室を運営したりと若い頃からとてもアクティブに活動をされてきました。

50歳でシングルとなり、二人の娘さんも成人され、ご両親の介護もなく自由な身として生活していた中、新型コロナウィルスの影響による緊急事態宣言。人に会うこともできず、大阪のマンション周辺でランニングしたり自転車でサイクリングしたりするばかりの窮屈な生活を余儀なくされました。そんな折、畑中さんの元に1通のメールが届きます。送り主は、現在こども食堂の拠点となっている「Hachikita U Base」のオーナーさんからでした。

「Hachikita U Base」は地域への想いが強いオーナーご夫妻が使われなくなった旅館を買い取ってリノベーションした施設です。
春先から3名の高校生を受け入れて寮として運営を開始していました。
地元のお母さん方に高校生への食事を作ってもらっていましたが、そのお母さん方は皆さま宿泊業の女将さんたち。冬場の本業が忙しくなるときにどうしたものか悩んでいた折、畑中さんに白羽の矢が立ちました。
3ヶ月間お部屋が借りられてスキーし放題、その代わりに泊まり込みで高校生たちに食事の提供をお願いしたいという内容のメールに、何のしがらみもなかった畑中さんは、少しの間のスキーリゾートに来る感覚でハチ北に来てみることにしました。

そして、高校生の食事を準備しながらスキー三昧で冬をハチ北で過ごし、移住を考えたのは3月に入った頃でした。
春が近づくに連れてだんだんと、こういう暮らしもいいかもしれないと思う気持ちが芽生えます。
夏場に具体的に何をするのか決まっていた訳ではありません。その時は誰もいない大阪の賃貸マンションをほったらかし家賃だけ払い続けていました。けれどもハチ北での暮らしを思うと大阪での窮屈な生活に戻る必要はないと感じ、6月には拠点を完全にハチ北に移す決断をしました。

冬場のシーズンが終われば暇な日常が訪れるのかと思いきや、あたたかい季節になってもハチ北の暮らしはとても忙しい毎日でした。
ハチ北の人たちはよく集まっては、色々な取り組みをしています。ただの草刈りでさえ、畑中さんにとっては、とても面白いイベントの1つでした。

「何がそんなに面白いんやって言われるんですけどね。田舎のない私にとっては全てがリゾート気分です。ここはただの田舎ではありませんでした。村民全員が観光協会員であり、様々なイベントを一緒に盛り上げていくという素晴らしい取り組み。私にとってとても楽しい時間がありました。」

 

移住者だからこそできる地域の垣根を超えた役割

以前に、こちらの記事でお話を聞かせていただいたムッティーさん。

「ハチ北ミュージックフェス」と「ハチ北の人たち」に惹かれて

この春から香美町議会議員になられ、議員活動もされています。

2018年、ハチ北ミュージックフェスをきっかけにハチ北と出会い、2022年から移住。
地元の消防団や観光協会の理事など、地域に深く入り込み、仕組みから動かす胆力の必要な道を選ばれています。

ハチ北は今ではスキーの一大リゾート地として知られていますが、高度経済成長期のスキーブームが到来するまでは、山間の農村地域として農業を生業としながらの暮らしがありました。
深い雪と寒さに耐え忍ぶ冬の季節を自分たちの力で観光資源へと変えてきたハチ北の先人たち。
ムッティーさんはそんな彼らに深い敬意を抱きながら、ハチ北観光協会やハチ北ミュージックフェス実行委員など様々な取り組みを行い、スキー人口の減少を見据えた夏場のハチ北観光を盛り上げようとしています。

 

「自分はハチ北の『人』に心底憧れている」というムッティーさん。
日本がコロナ禍にあった時期、ありとあらゆる当たり前が当たり前でなくなり、都市で消費するだけの自分の力では解決できないことがあると知り、都会の暮らしに危機感を覚えました。
ハチ北の人たちのシンプルな生き物としての強さ。何かをしようというときは、阿吽の呼吸で各々マイ軽トラックに乗って集まり、マイ工具を持ち、舞台から何から自分たちで作ってしまうことが当たり前という感覚。
ハチ北の人々の全てを自分事として結果を受け止めている姿が本当にかっこよく素敵なのだと感じているそうです。

「実際に課題が見つかったとしても、やっぱり20年30年その課題と向き合ってきた人たちが感じられている奥にある理由みたいなものは、自分が感じている『普通』とは違うと思います。
まだまだ見えていない部分もありますが、リソースがない中で踏ん張ってやってきて疲弊してしまうこともあるので、自分ならこうするなってところを、音楽とか、そういう部分でしゃしゃり出てやっているという感じです。」

 

移住者と地元の相互作用

ハチ北で生まれ育った西谷さん。
大学時代は地元から離れて西宮市で過ごし、大学を卒業すると地元香美町で就職されました。
西谷さんがハチ北に帰ってきた頃は、まだスキー場にもそれなりに人が来ていた頃で、スキーがあればなんとかなるだろうという空気が地域全体にありました。
しかし、コロナ禍の影響で人の流れが一気に止まり、客足は大きく減ることになります。
さすがになんとかせねばあかんという危機感が広がっていた頃、ムッティーさんや畑中さんを始めとしたハチ北への移住者が増え、いろいろな取り組みもあってハチ北には新しい風が吹き始めました。

「ここ4、5年で雰囲気はガラッと変わりました。特に長年関わっているハチ北観光協会はムッティーさんが入り大きく変わりました。
もゆるさんもこの人は何かやるだろうなとは思っていましたが、こども食堂に昨日もたくさんの子連れ家族が来ていて——」

取材の前日には初めて夕方の時間帯にこども食堂が開催され、いつもはあまり姿を見ないお父さんも一緒に来てくれる家族が多かったそうです。
西谷さんも昨日はお父さんとしての一面を覗かせました。広い空間で子どもたちが走り回ったり、お父さんと遊んでいたりする姿を見て、いつも忙しいお母さんたちもほっこりとされていたのだとか。

常設のこども食堂を香美町全体に

夏休みに1ヶ月限定のつもりで始まったこども食堂は、香美町社会福祉協議会や地元の皆様、ボランティアで食事を作ってくれるママたちの協力のおかげもあり、「香美町みんなのこども食堂」として畑中さんを代表に団体が設立されました。
香美町初の常設こども食堂として食事の提供を月に2回、土曜日に開設しています。
お米や野菜、寄付金など、地元の皆様のたくさんのご支援によって、大人にも子どもにも1食300円で食事が提供されています。
また、小中学校のクラブ活動がない毎週水曜日には「おかえりクラブ」が15時から18時で開催され、学校帰りの子どもたちが宿題を持ち寄ったり遊んだりしています。
こども食堂を村岡区だけでなく小代区、香住区にも開設し、各区の明るいママ達が中心となり「空き家対策」「村やまちに彩を」を念頭に常設こども食堂を目指して活動を続けています。

 

産業そのものがエンターテインメント

香住、村岡、小代の3つの地域がそれぞれの特徴を個性豊かに発揮している香美町の人口は約一万五千人。
ハチ北ミュージックフェスやこども食堂など地域全体で取り組むことがとても大切。
ムッティーさんも畑中さんも外から来た自分たちだからこそ、好き勝手に巻き込んでいけるのだと話します。

香美町として合併して20年。
3つの地域が混ざり合うことがなかなか起きにくい理由は、香美町の皆さんがとってもシャイだからではとのこと。
各区のどこにでも話して見れば面白い人、かっこいい人がたくさんいるので、そこを勝手に繋げてみたり、他の地域と一緒に行うきっかけを作ったりすると本当に面白いことがたくさん生まれるのだそうです。

子育てや便利さだけを追い求めたら、都会で暮らした方が格段に有利なはずですが、それ以上に面白さ、好奇心が優っている人たちが、今、香美町には本当にたくさん来られています。
それが地域の人たちと相乗効果を生み、新たな産業として、そしてエンターテイメントとして広がりを見せています。

最後に、ハチ北への想いや未来への話を聞いてみました。

ムッティーさん:
僕自身が感じられているこのハチ北の面白さがきちんと伝われば、きっとたくさんの人が来てくれる。
その為に、きちんと実現し、文脈にし、形にして更なるフックを作っていけば、それが魅力的な人たちのアンテナに引っかかり、更に面白い地域になると思います。
地元の人たちが自分たちを卑下することなく、やってきたことの凄さを伝え、誇りを持ってもらい、一緒に楽しいことをしていく。
それを楽しいと、面白いと感じられる人が更に新しく来てくれたら嬉しいです。

 

畑中さん:
人口が少ない地域や中山間地域ほど強みがあると思います。
世界中で懸念される気温上昇、水、食料問題、そして災害列島日本。生き残れるのは地方なのかもしれませんね。娘たちにも地方をお勧めしたりしています。
便利な都会でたくさん稼いでも、生活コストがかかり、何より時間のない人が多すぎます。
60代だからこそ言えるのかもしれませんが、人が少ない地域だからこそ1人ひとりの存在が消えない。幸せと感謝に溢れた日々を過ごしています。

 

西谷さん:
役場に入ったのは地域を元気にしたかったから。
この地域を選んで来てくれて地域で何かをやりたいと思っている人たちや、もしやり方のわからない人がいればその助けになれるといいなと思います。
地元の人たちも、こんな面白い人たちがいるのだともっと知って欲しいし、そうしてその人たちが認めてくれる今の自分たちを自分たちで認めて、一緒に香美町を良くしていけたら、もっともっと伸び代は大きいと感じています。

 

今回お話を聞かせていただいたお三方がそれぞれのお互いを尊重し合い、それぞれの立場からできることを実行しているその姿に、ハチ北の盛り上がりの理由を実感しました。

畑中さん、ムッティーさん、西谷さん、今回は本当にありがとうございました!

誰もが笑顔になる梨を求めて

誰もが笑顔になる梨を求めて

香住ブランドの梨「香住梨」。
地域が誇る特産品の1つですが、近年は担い手の継続が課題となっています。

香住梨の産地や生産技術を守るため、JAや町、各種団体が協力して始まった「香住なしの学校」。

その2期生である宮川司さん。
香美町に移住し、梨農家として就農を目指されています。

人生の転機に思い出された「梨」の味

宮川さんは長野県のご出身、17年ほど陸上自衛隊員として働いておりました。

色々な学びを得つつも、何か感じる違和感や自分の気持ちに正直でありたいという想いが積み重なり、次第に退職を考えるようになります。そんな時に心のどこかで小さく燻り続けていたのは、昔食べた忘れられない「梨」のこと。

二十歳頃の宮川さんは真夏日の休日、地元長野県の戸隠という地域で自主的にランニングに励んでいました。途中の自動販売機でスポーツドリンクでも買おうとしたとき、わずかに握りしめてきた小銭が、百円玉ではなく五十円玉であったことに気づきます。

仕方なく水道水や湧水などでなんとか喉を潤し、帰路につきますが、走っているうちにだんだんと熱中症の症状が強く出始めます。

異常な発汗や頭痛、目が回るような感覚がしながらもやっとの思いで帰宅し、部屋で休養することにしたました。しばらくの時間、体を休ませますがなかなか頭痛が引きません。

そんな様子を見た母親が気遣い、たまたまその時に家にあった「梨」を剥いて出してくれました。

それが驚くほど美味しい。宮川さんは、言葉では表現しづらいと言いながらも、その時の梨は「魂に響く味」だったと表現します。今でもあの時の感動は印象深く覚えているそうです。

 

「香住なしの学校」に入校、そして香美町へ移住

高校卒業後に入隊、「一度決めた道ならば、この職場で定年まで働き通したい」。
そう思っていましたが、気づけば変わってしまった本心がそこにはありました。

「この先も自分の気持ちに嘘をついて生きるくらいなら、残りの人生は自分の思うものを追い求めよう」その思いが背中を押して、新たな一歩を踏み出します。

この時、腹を決めると同時に、やるならば「梨」だと強く思ったそうです。

2年ほど自分の腹落ちできる形を探し、妥協することなく、求め続ける中で出会った「香住なしの学校」。

4回のインターンシップを経て、2期生の募集に応募します。

そうして入校が決まり、空き家バンクで住まいを見つけ、2024年の3月より香住での生活が始まりました。

 

 

人につながる日々の暮らし

「梨」がきっかけで香住の地と出会い、暮らし始めて1年半。
地域の青年部会や消防団などにも参加し、近所の方々や漁業関係の方、兵庫県外の農家さん、香住梨を栽培される地元農家さんとの交流を通じて、日々人の温かさに触れています。

その中でもいくつか印象深い思い出をお話くださいました。
「地元の子供たちはよく挨拶をしてくれます。横断歩道で止まった車に、上級生が下級生にきちんとお礼を言うように教えていたりしている姿は印象深いです。また、カメムシの被害に遭いながらも、初めて梨が収穫できた時はとても嬉しく、ついついご近所の方に配っていたら、冬にとても美味しい蟹になって返ってきた時には、驚きとともに胸がいっぱい。とてもありがたい気持ちになりました。」

 

農業高校を卒業してはいるものの、果樹栽培の知識はほぼゼロからスタートした宮川さん。

紹介していただいた梨園は香住区隼人、周りにもたくさんの先輩梨農家さんがいらっしゃいます。
「香住なしの学校」だけでなく若手梨農家の生産グループ「香住まったナシ」という枠組みや周りの梨農家さんたちのおかげで、ほぼ初心者でもここまで来ることができました。

以前の梨園の持ち主さんが辞めるということで「二十世紀梨」の木を切られた場所には「なしおとめ」の苗木を植えました。

元々あった木の中支柱も、古くなり腐ってくると病気の発生元にもなってしまう為、全て撤去したりしているとのこと。

以前の持ち主さんが栽培を辞められてから、何年か経過していた梨園でしたので、枯れた梨の枝や古い資材が残った状態からのスタートでした。

それでも「香住まったナシ」の方々にもご協力をいただき、片付けを手伝ってもらいながら、少しずつ、就農に向けた準備を進められています。

4月には花粉付けを行い、摘蕾、摘果、その後は実の発育を見つつ、小袋かけ、大袋かけ。
収穫の時期を終えたら、秋から冬にかけては剪定や誘引、花芽整理を行い、また春を迎えます。

合間には病気や害虫予防の為に農薬を散布しますが、特に夏場の暑い時期の散布作業はとても大変な作業に感じるそうです。

 

誰もが食べたら思わず笑顔になってしまう「梨」をつくりたい

梨を求めてこの地にたどり着いた宮川さん。

他の地域には、平坦な場所で作業環境にとても恵まれた梨園もありましたが、こうして基盤や仕組みがある地域は調べていて、なかなか他にはなかった為「香住なしの学校」を選びました。

目指している最終目標は「誰もが食べたら思わず笑顔になってしまう『梨』をつくること」。

ありのままの自然を感じながら、そんな梨を作れるように少しずつでも自分自身を成長させつつ、梨農家として就農を目指す宮川司さんの挑戦は、これからもまだまだ続きます。

香美町の未来をつくる仕事 -香美町若手職員のリアル-

香美町の未来をつくる仕事 -香美町若手職員のリアル-

(左から教育総務課守山さん、福祉課山口さん、町民課山邊さん)

こどもたちに夢と未来をつなぐまち
香美町で、働こう。

香美町では令和5年度より採用に向けた職員採用プロジェクトチームを編成しています。
今回は、そんな香美町でのお仕事を心から楽しんでオススメしてくれるプロジェクトチームの若手職員3名の方にお話を聞かせていただきました。

 

新卒採用1年目 町民課で働く山邊力斗さん
社会人採用2年目 教育総務課で働く守山和孝さん
社会人採用5年目 福祉課で働く山口愛さん

 

 

それでは、最初に皆さんのこれまでの経歴やなぜ香美町で働こうと思ったのか経緯をお聞かせください。

山邊:
僕は山口県の大学を卒業し、その大学からの繋がりで1年間はカナダに留学をしていました。
最初の半年間は学校に通い、後半はマーケティングの会社のインターンシップに参加しました。
皆さんすごくいい方ばかりで楽しく過ごしていましたが、日本食が恋しいのと、それからトロントという大都会にいたので、人が目まぐるしく行き交うのを見て、マイペースな自分には平和でのんびりした場所が合っているなと感じ日本に帰ることにしました。20年近く育ってきた地元に恩返しをしたいと思い、香美町を選びました。

守山:
僕は前職では11年ほど一般企業で開発の現場で働き、社会人になってからは地区のイベントやお祭に積極的に参加してきました。
コロナ禍もあり世の中が大きく変革していくことを感じたり、自分の残りの社会人生活をどう過ごすか考えたりしたときに、自分の力を地域に活かしたいと思うようになり、香美町で働きたいと思うようになりました。

山口:
私は以前は銀行で働いていて、町役場には会計年度任用職員として携わっていました。
子供が産まれて子育てをしながら、将来のことを考えるようになり、子供たちが大きくなったときに帰ってきたくなる地域であればいいなと感じていました。
そんな折に、香美町役場で社会人枠の採用が始まったと知り、自分にも受けることができると思い応募しました。

 

皆さん香美町が地元なのですね。
では、次に皆さんのお仕事内容についてお聞かせください。

山邊:
僕は、まだ社会人になって間もないのですが先輩や上司の方がとても優しくて毎日楽しく仕事をしています。
町民課では人権教育協議会や人権擁護の担当をしていて、学校の先生をされていた方やPTAの会長さんなどいろいろとお願いに伺う機会も多く、敬語や目上の方にご依頼をするということを日々学ばせていただいております。
講演会や会議などのスケジュールが年間で決まっていることが多いので、前任の方の資料を見ながら参考にし、自分でいつ事前連絡や準備をするかなど考えながら仕事を進めています。

守山:
教育委員会は村岡地域局2階にあり、僕がいる教育総務課の他に、こども教育課と生涯学習課があります。
教育総務課は学校運営をサポートする仕事で、主にスクールバス、会計年度任用職員の服務、公立学校共済、遠距離通学補助や部活動の大会に関する補助金申請の事務担当をしています。教育委員会に来て初めて学校の現場や事務処理がどのような流れで運営されているか知ることができました。
幼稚園や小中学校の児童生徒さんの数が今は減少傾向にある中で、学校運営をどのようにサポートしていけるかが教育委員会の事務局としての大きな役割であり、将来を担うこどもたちのためにと思うとやりがいがあります。

山口:
以前は健康課という課にいて、そこでは日常の決まった業務がとても多くて毎日忙しく過ごしていました。今は福祉課で2年目になり、今年からは3ヵ年の福祉計画を策定する担当になったので、町民さんが普段どのようなことにお困りなのかアンケート調査をしたり、専門家の方々と相談したりしています。高齢の方で介護認定を受けていない方々にどう元気でいてもらえるか、移動支援なども含め、この地域で長く自分らしく暮らしていけるような次の施策を考えていきたいです。

 

部署により全然違うのですね。
職場の雰囲気はいかがですか。残業や大変なことなどありますか。

山邊:
入庁してから最初の6ヶ月間は車を運転できない期間と決まっていまして、人権の部署では小中学校に人権のポスターや標語、作文などをお願いに伺うこともあったり、会議や外回りが多いのですが、先輩方が一緒に行ってくださったり、とてもよくしていただいてます。
残業はあまりないのですが、部署が戸籍やゴミのことなど問い合わせや電話がよくあるところなので、17時15分以降の電話が鳴らなくなってから集中したい仕事を静寂の中でやるのが好きです。
今年は人権教育協議会の県の中央大会が但馬地区であるのでけっこう大変で、過去の資料を確認していたら「これもやらんといかんかった」みたいなことがよくあります。ただ擁護委員をしてくださる方は友達の親御さんや昔お世話になった学校の先生もいたりして、「山邊くんの頼みなら引き受けようか」と言ってくださったりするのが嬉しかったりします。

守山:
当時お世話になった先生方が今では教頭先生や校長先生になっていたりして、久しぶりに会えることもあってけっこう楽しいです。
残業の頻度や会議、外出の多さは担当によってまちまちで、学校施設を担当したり学校内部の担当の方は外によく出ていたり、生涯学習課の担当者は土日に業務があることも多いです。
前職では出張もよくあり、忙しい時期はほとんど家にいないこともあったので、それに比べればスケジュールが組みやすい環境にいます。
スクールバスのことや学校共済、会計年度職員に関係すること、日報を処理したりと月の中でやることの流れがあり、その合間に補助金関連の申請が来ると処理するような形で業務を行っています。教育委員会は村岡地域局のワンフロアで仕事をしていて、こどもたちの未来のことを考える部署なので前向きな空気だと思います。

山口:
福祉課や健康課は職員の人数も多いです。福祉課では専門職の人が多くて、町民さんや高齢の方を相手にされている方々なので、とても優しいですし、いろいろ相談もしやすい雰囲気です。以前の健康課では健康保険や制度に関する業務が多く、1人1人の担当業務を回すのが大変な部分も多かったです。今の福祉計画を策定する業務は、以前の業務に比べれば時間の融通は利きますが、多くの方の意見を聞いたり考えたりまた違った大変さもあります。あまり役場から出て行く仕事でもないので、実際に町民さんがどんなことに困っているのかなど今回アンケートをとるのでそこでしっかり聞いてその声を実現できるような施策を立てられたらと考えています。

 

大変なこともあるけどやりがいを持って働かれているのですね
皆さんのお休みの日の過ごし方を教えてください。

山邊:
僕は割とインドア派で、最近はオーディオ関係に凝っています。アメリカの音響映像会社が提供している音響機械やディスプレイなど、7台ほど設置して部屋を映画館顔負けの空間にして楽しんでいます。(音の響きや色の表現の幅などマニアックなお話をたくさん聞かせていただき)この話ならいくらでもできます。(笑)

守山:
僕は休みの日はほとんど家にいません。夏の時期は地区の球技大会があったり、地域のこどもたちに卓球の指導や試合に参加をしていたりするので、加えてお祭りや選挙などの行事があると土日に休む時間がほぼないこともあります。平日より忙しいかもしれません。

山口:
私は子どもの部活の送迎に追われています。普段はなかなか家の掃除ができないので、掃除をしたりで1日が終わります。温泉とかサウナに行ったりもします。

 

家庭に地域に趣味に。休みの日はそれぞれの過ごし方をされてますね。
香美町の良さはどんなところだと思いますか。

山邊:
都会で暮らしたときは周りに人がたくさんいても知らない人ばかりだったので、香美町ではほとんど知ってる人ばかりで、顔が見える地域ですごく暖かさを感じます。

守山:
僕は今、村岡区に通っているのですが、今まであまり馴染みのない村岡・小代の山とか、こんな場所が香美町にあったのかと再発見をしています。香住区で育ったので海はあるけどあまり高い山がなく、同じ香美町でも山の上にこんな景色があったのかと驚きます。
香美町はハチ北では雪やスキーを、香住では海を、四季を本当に楽しめる地域です。

山口:
自分が生まれ育ったところなので、すごくいいところだと思いますし、海もあり山もあり、食べ物も美味しいし、本当におすすめできます。あとカニをもらったりもします。

守山:
カニはもらいますね。

 

それは本当にめちゃめちゃ魅力的ですね。(笑)
皆さんが今後やりたいことはありますか。

山邊:
僕はカナダでマーケティングの勉強もしてきたので、いつか香美町のためにそれを活かすことができたらいいなと思っています。香美町に人がたくさん来てもらえるような事業ができたり、それで雇用が生まれたり、そんなことができたらいいなと思います。

守山:
僕はもともとイベントとか地域の行事が好きだったので、そういうことに関わって地域を活性化できたらいいなと思っています。香住ふるさとまつりとかスキー場とか、外から来た人に香美町の魅力を知ってもらって多くの人との交流や住んでみたい人が増えるようなことに関われたらいいなと思っています。

山口:
自分の課の業務だけでなく、縦の枠を超えてお互いの仕事を協力ができたり、横のつながりができてフラットな形を作っていけたらいいなと思っています。

 

この採用プロジェクトチームもまさにそんな形ですね。
7月から採用の公募が始まるとのことですが、それでは最後に受験者に向けたメッセージをお願いします。

山邊:
僕たちと一緒に香美町の未来をつくっていきましょう!

守山:
香美町に好きな部分があったり魅力を感じていたりする方と一緒に働けたら嬉しいです。町外からでもぜひ香美町に一度足を運んでほしいです。

山口:
食べ物も美味しいし、本当にいいところなので、移住も込みで来てくれたら嬉しいです。

 

 

皆さんすごく楽しそうにやりがいを持って仕事をされていました。行政のお仕事はやろうと思えばいくらでもやれてしまうお仕事なので、実際は大変なことも多いと思うのですが、前向きな姿がとてもキラキラとしています。
このWONDER KAMIは、外の方で見てくれている方も多いと思うので、ぜひ香美町でのお仕事に興味のある方は、採用のお申し込みをしてみてください。

山邊さん、守山さん、山口さん、本日は貴重なお話を本当にありがとうございました!

地域の人が集い、観光客が訪れる、佐津のHUBとなるヤマカフェを目指して

地域の人が集い、観光客が訪れる、佐津のHUBとなるヤマカフェを目指して

白い砂浜が人気の佐津海岸。海水浴のシーズンにはたくさんの家族連れで賑わっています。
そんな佐津海岸で唯一の浜茶屋として親しまれている「ヤマカフェ」は、山下暢嗣さんが10年ほど前から営業されています。
今年からは夏の期間だけでなく、年中お店を開けるようになり、より多くの方に海を見ながらお茶をしたり食事をしたり、夜にはお酒も楽しんでいただけます。
子供の頃から育ってきた佐津の地域をよりたくさんの人が楽しめる場所にするために、山下さんの挑戦は始まったばかりです。

香美町香住区訓谷の佐津海岸で、山下さんのご実家では長年、砂浜や駐車場の管理を区から任されてきました。
父親は新聞配達店を、母親はスナックをそれぞれ経営しており、忙しくしている中で、山下さんは幼い頃から砂浜のゴミ拾いや、夏場の忙しい時期のお手伝いを当たり前のように行ってきました。
高校を卒業すれば、ほとんどの人たちは、町外に出るのが当たり前。山下さんが学生の頃はそんな空気感もあり、山下さんご自身も例に漏れず、大阪の専門学校に進学します。
そうして、社会人となり大阪のサーフショップで働きながらも、夏場は香住へ戻り忙しい時期をお手伝いする、そんな青春時代を過ごします。
20代前半の頃に自転車で日本一周をしたり、東京での暮らしも経験し、まだまだ色々やりたい気持ちを抱えていた頃に体調を崩してしまいます。そうして、そのことをきっかけに地元へ戻ることに決め、父の新聞配達の仕事を手伝うことになります。

元々、楽しいことが大好きだった山下さん。
香美町に戻った後も「何かをしたい」という想いを持ち続けながらも、結婚や子育てもしながら、仕事に追われる日々が過ぎていきます。
そして新聞配達の仕事を続けて15年ほどした頃に山下さんが子供時代には7軒ほどあった佐津海岸の浜茶屋がたったの1軒になり、せっかく海水浴に来た人たちに楽しんでもらえる場所がなくなってしまっていました。
新聞配達の事業は人口減少や紙からインターネットへの変革が進む中でなかなか厳しい時代になっていくことが予想され、日頃から新たな事業展開を考えていた山下さん。こうなったら自分がやろうと浜茶屋「ヤマカフェ」を立ち上げます。
新たな決断をして準備を進める中、山下さんの父親が脳梗塞で倒れます。そうして夏場の浜茶屋「ヤマカフェ」のスタートと共に父親の新聞配達の事業も引き継ぐことになり、毎日を無我夢中で働きます。

新聞配達のお仕事は、夜中の2時頃に起き、朝6時半頃までには配達が終わる毎日です。
海開きとなる7月から夏休みが終わる8月末までの2ヶ月間は、佐津海岸にとって1年で1番の書き入れ時。週末には1000人近くの家族連れで賑わいます。
新聞配達の仕事もしながら、夏場の浜茶屋「ヤマカフェ」も大忙しの日々を重ね、気づけばコロナ禍の最中には佐津海岸の浜茶屋は「ヤマカフェ」のみになっていました。

暑い時期、佐津海岸の白い砂浜を目の前に、外のテラスにパラソルや椅子を置いて、海水浴のお客様と共に愛されてきた浜茶屋「ヤマカフェ」。忙しいお昼時や夕方までの日中営業と、ときどき民宿に来たお客さまたちとビアガーデンとして夜もイベント営業をしたりもしてきました。
そして昨年、古くからあった小屋を取り壊し、カフェ「ヤマカフェ」が新設されました。

今年の春からは、年中OPENをするようになった「ヤマカフェ」。
営業時間は10時半〜22時頃
水曜日以外は毎日営業を目指しているそうです。
まだまだ新聞配達のお仕事も忙しい中で、山下さんが体力の限界まで両立されている状況に、予約のない夜は開けられないことも時々あるのだとか。夜は、ご予約をいただくのが確実です。

取材日は天気がよかったため、「綺麗な海原を目の前に、コーヒーやお酒を楽しめて最高の場所ですね。」と言うと、「今日はいい日に来たけど、昨日は寒空でした。」と笑う山下さん。
冬の日本海の海は、冷たい風を想起しますが、そんな日は焚き火にあたりながら、おでんと熱燗を楽しむのも乙な空間です。

近くの廃校から、思い出の残った机に椅子、下駄箱や人体模型を引き継ぎ、お洒落さと共にノスタルジックな雰囲気も感じられる「ヤマカフェ」では、まずは地元の人たちが集まる場所を目指します。子どもから大人連れまで楽しめる季節ごとのイベントも随時企画されています。

スナックを長年営んできたお母様の人気メニュー絶品カレーは、地元のお野菜や但馬牛がふんだんに使われ、ヤマカフェでも大人気の逸品です。

子供の頃から地元で商売をされてきたご両親の後ろ姿を見ていた山下さん。そして、海水浴場では多くの観光客を迎え入れてきた山下さんだからこそ、できる地元と外からの人たちの交流拠点。
地域で長年積み重ねられた空気感と、外からの新しい情報が混ざり合い、新たな文化の香りがする場所ヤマカフェで、ぜひゆっくりとした時間をお過ごしください。

ハチ北ならではの多角的戦略による観光振興と本来の自然を生かした魅力溢れる地域づくり

ハチ北ならではの多角的戦略による観光振興と本来の自然を生かした魅力溢れる地域づくり

ハチ北観光協会
一般社団法人 ハチ北高原自然協会
代表理事 田丸明人さん

スキーやキャンプなどアウトドアアクティビティを思いっきり楽しめる自然豊かな村岡のリゾート地、ハチ北高原。
一般社団法人 ハチ北高原自然協会(以下「ハチ北観光協会」という)で代表理事を務める田丸明人さんは、道の駅 村岡ファームガーデンや但馬高原植物園など、たくさんのアイデアを活かしながら地域全体を盛り上げてきた仕掛け人です。今回はそんな田丸さんに観光協会の代表となるまでの経緯やハチ北の大自然を活かした活動についてなどたくさんのお話を聞かせていただきました。

香美町村岡区大笹地区は鉢伏山の北側に位置し、通称ハチ北高原(以下「ハチ北」)と呼ばれるスキーやスノボードで人気の西日本を代表する冬のリゾート地です。
ハチ北で生まれ育った田丸さん。しかし最初から観光の仕事をしていたわけではなく、大工仕事や建築物に興味があった田丸さんは建築士を目指して名古屋にある建築系の専門学校に進み、卒業後は近隣の建設会社に就職しました。
転機はそれから3年ほど建設業界で経験を積み建築士へのステップアップを目指そうというタイミングでした。
建築士になる前に一度思いっきりスキーをしたかったこともあり、長野県の信州にあるスキー場近くの宿屋でアルバイトを始めました。
そこでペンションという宿泊業態と出会いその面白さを知り、地元でもやってみたいと思うようになります。

その頃、美方郡に民宿は数多くありましたが、ペンションという形態の宿泊施設はまだ一軒もありませんでした。
そこで、田丸さんは25歳の時に思い切って地元に戻り、ハチ北で初のペンションを開業することにします。
一からペンションの経営を始めた田丸さん。
立地がそれほどよいところではなかったため、広報活動に力を入れたりリフト乗り場まで送迎をしたり、他の宿にはないサービスや工夫を重ねた結果、お客さまが徐々に来てくれるようになりました。
しかし、いくら宿屋だけ個人が頑張っていても、そもそもハチ北自体にもっと集客ができないとお客さまは増えないのだと感じ、地域をあげてなんとかしようと観光や地域づくりへの興味や関心が強くなりました。

そして、20代に観光協会に入り、38歳のときハチ北観光協会の会長になります。当時はまだ香美町として合併する前の村岡町時代で、ハチ北の代表として村岡の観光協会に顔を出していると、たちまち村岡観光協会の会長に抜擢されます。
そうして、活動する地域を広げながら観光を中心とした地域づくりに深く関わるようになりました。

田丸さんが村岡観光協会の支配人に就任した頃、村岡の豊かな植生がテーマの植物園をつくる計画が始まります。
その後、株式会社むらおか振興公社という第三セクターの社長に就任し、完成したたじま高原植物園とともに道の駅 村岡ファームガーデンの経営にも着手し始めます。
オープン当初、村岡ファームガーデンに並ぶお土産のほとんどが他所で作られたものばかりだったことに疑問を感じた田丸さんは、この土地で産まれたものでないと村岡のお土産とは言えないと思い、特産品開発や農業振興にも力を入れ出します。


(期間限定で但馬牛を放牧する大笹牧場)

植物園にある但馬牛レストランを訪れる観光客の中には但馬を「たじま」と読めない方も多かったそうで、但馬牛ブランドの認知度を広める取組みも展開します。
元々、神戸牛などのブランド和牛になる素牛用子牛の繁殖は盛んでも和牛ブランドとしては販売していなかった肉用牛の但馬牛(たじまうし)。神戸牛や松坂牛となる素牛を生産するOEMばかりではなく、ブランド和牛但馬牛(たじまぎゅう)として肉の生産とブランド化を進めました。
繁殖だけでなく肥育を含めた飼育に方針転換を行い、今では1000頭を超えるクオリティの高い但馬牛を飼育する畜産会社さんの牽引によって肥育農家さんも増えています。また、村岡では小豆が有名とのことで、棚田を利用し手作業によって種まきや収穫された色鮮やかな高級小豆として知られている美方大納言も「美方ルビー」ブランドとして成長させています。
赤字経営からV字回復をさせ、数々の特産品を広めてきた田丸さん。常にクビを覚悟しながらも戦略的に、時には強引にアイデアと行動力で実行し続けてきました。そして、2021年むらおか振興公社の社長を退任し、現在は農業を中心にハチ北観光協会からの地域づくりに注力しています。

※用語解説 
素牛・・・・・繁殖用または肉用として飼育される前の子牛
繁殖農家・・・繁殖牛を飼育して子牛を生ませ、子牛を素牛になるまで育てて出荷する農家(但馬牛)
肥育農家・・・肉牛の素牛を購入して飼育し、肉として出荷する農家(松坂牛や近江牛)
OEM・・・・委託者のブランド名の製品を受託して生産すること
但馬牛の子牛が各地に出荷され、神戸牛や松坂牛や近江牛というお肉になる。

地域資源をふんだんに活かした観光は貿易と一緒だと話します。
外資を稼ぎ、どう地域で循環させるか。

冬場のスキーシーズンにはたくさんの外資が落とされるハチ北ですが、夏場の観光は常に課題です。
そんな中で流行を敏感に捉えブームを生み出す田丸さんの発想力によってこれまでの経験を活かしながら楽しそうな取組みがどんどん展開されていきます。
コロナ禍時にはキャンプ場を流行りのオートキャンプ場としてPRし、冬場しか営業していなかったハチ北温泉も夏場は観光協会が営業しています。
土日や祝日、イベント開催時も温泉に入れるようになりました。
地名を知ってもらうために、村岡ダブルフルマラソンを開催し、常設コースを設置。ランニングという目的を作り温泉に入ってもらうことを狙います。
出産前の但馬牛を放牧する大笹牧場では6月〜10月の期間限定で但馬牛のガイド養成講座をプラチナ人材センターとして開催。
オートキャンプ場グリーンパークハチ北ではキャンプ場エリアに隣接するもののけの森が有名アニメに登場する神秘的な森のようだと大人気に。
もののけの森に整備されたワンダフルロードでは、愛犬と一緒に森の散策が楽しめます。
山の中に視界が広がる景色を作り、ハチ北の山々を一望できる見晴らしがいい高台には木の枝を使って鳥の巣のような展望台を設置。
キャンプ場から階段500段と急傾斜の道なき道を進む上級者向けのアスレチックアトラクションの鳥の巣展望台はインスタ映えスポットとして人気です。

ハチ北の地域では、飲み会がとても多いのだそう。住民が楽しく暮らせるように、楽しいところに人が集まって来る。そんなハチ北ならではの自然を活かして居心地のよい空間づくりを地域が一丸となって取り組みます。
ハチ北では絶滅危惧種のイヌワシの保護や鹿柵の整備、化成肥料を使わない農業など自然環境を守る取り組みを行っています。この地域にある本来の自然を豊かにしていくことで魅力を高め、それが人を惹きつける観光に繋がる。リゾート観光を軸にしてきたハチ北の地から、持続可能な地域社会を創りあげています。

皆が健康で元気でいられるよう低糖質お菓子に願いを込めて

皆が健康で元気でいられるよう低糖質お菓子に願いを込めて

香住区の柴山にある入江の目の前に、低糖質お菓子の専門店loving(ラビング)が佇んでいます。

週に2回、木曜日と日曜日にOPENされているこちらのお店には、近隣から手土産やおやつをお買い求めに来られる方、遠方から低糖質のお菓子を求めて来られる方など、次から次へとお客さまが訪れます。

お菓子を作り、販売されているのはlovingの店主、田淵香苗さん。
ご両親が経営されていた水産加工のお店の跡地を活用し、香住から健康と愛に溢れた世の中を目指して2年前にOPENしました。今回は病気を経験して苦しんだ経験からlovingをオープンする決意やこれからのlovingについてお話を伺いました。

歌のお姉さんに憧れていた香苗さんは、声楽を学ぼうと大阪の大学に進学しました。

しかし、在学中に体を壊してしまい、香住に戻ることになりました。
香住に戻り、ご両親の水産加工のお仕事をお手伝いしていた香苗さんは、「長靴を履いて蟹のセリに出たりもしていました」と笑います。

その後、神主をされている旦那さんとはボランティア活動で知り合い、隣の地区の神社にお嫁に行くことになりました。

神社の嫁としての日々は大変なことも多かったそうです。
妊娠してお子さんを授かってからは強い母親になりたいとの思いで、化粧品代理店の仕事を始められました。
元々は香苗さんのお母さまが水産加工の仕事をしながら知人に化粧品を販売していたそうです。それを受け継いで33年間仕事を続け、「この化粧品でないと」と言ってくださるお客さまが今でもおられるそうです。

子供が好きで歌のお姉さんに憧れていた夢は、大学で体を壊し辞めて帰ってきた時に諦めることとなりましたが、香住に帰ってきてから憧れていた仕事が小料理屋の女将さんです。
料理が好きで台所に立つことはちっとも苦ではなく、お菓子作りも趣味として楽しく行っていました。

そして、44歳の時、人生が一変する出来事が起こります。
乳癌が見つかり、手術と治療が始まりました。お医者さんから食事についてアドバイスをいただき、それまでストレス発散のために食べていたお菓子やパンなど甘いものは控えるようになり、玄米や野菜を中心とした食事を摂ったり、運動を行ったりと日々の生活を見直しました。

しかし、一度は完治した乳癌ですが、8年後に再発を宣告されます。
香苗さんは治療の副作用が強く出てしまう体質で、苦しみを乗り越えながら頑張ってきたことを、また1から始めないといけないのかと絶望の淵に立たされました。

そんな香苗さんを支えてくれたのが、ご家族の存在です。
「子どもたちには本当に悲しい思いをさせました」と香苗さんは当時のことを振り返ります。

1回目の癌がわかったとき高校生だった息子さんは、病気と闘う母親の姿を近くで見て、人の健康に従事する仕事に就きたいと考えるようになりました。
現在は運動だけでなく食事や健康に関する全面的な支援を行うパーソナルトレーニングと治療もできる健康増進施設を香住で運営されています。

2回目の治療を終えてからはご両親の介護などもしながら、息子さんの力も借りつつ、徹底した食事の管理や運動を行い、香苗さん自身の健康管理も追求するようになりました。

そして、60歳の節目の年に家族4人でお祝いにお伊勢参りに行かれた際に心に思ったことがありました。

これまで辛い思いもたくさんしてきたけれども、自分が経験してきたことでこれからの人生で誰かの役に立てることが何かできないだろうかと強く感じたそうです。

低糖質のお菓子のお店を始めようと思ったきっかけは、息子さんが運営するジムの利用者さんに手作りお菓子を提供した経験からでした。
徹底して糖質を使わない香苗さんのお菓子は、息子さんのジムでも大人気。
健康や美容を意識しているジムの利用者さんたちにとても喜ばれていたことを思い出し、自分のような病気で苦しんでいる方にも喜んでもらえるのではないかと考えたそうです。
健康志向の方、ダイエット中の方、美容を気にされる方からも求められるような健康的なお菓子を作ることで自分でも世の中のお役に立てることがあるかもしれない、そんな想いから香苗さんは低糖質お菓子のお店を開く決意をしました。

お店をオープンした当初はクッキーや焼き菓子など種類も少なかったので、前日に準備をすれば十分間に合いました。
しかし、病気で食べられない人のために食材を工夫してみたり、地元の食材を使ってみたりと様々な要望に応えるうちに品数はどんどん増え、香住の麹味噌や美方大納言小豆を使ったケーキやパンなど今ではショールームが一杯になるほどです。
普通のお菓子より作製に時間がかかるので、一つ一つ丁寧にいつも時間をかけてお店のお菓子をつくっているそうです。

lovingのお菓子は材料に砂糖と小麦粉を一切使っていません。
砂糖の代わりに植物由来の甘味料ラカント、小麦粉の代わりはアーモンドパウダー、おからパウダー、大豆粉を使用しています。
健康志向のお菓子と言えばパサパサして甘くなくあまり美味しくないイメージがありますが、lovingのお菓子は低糖質なのにしっとりと甘いのが特徴です。
健康のためだけでなく、ダイエットや美容に気を使われている方にも安心して召し上がっていただけます。

lovingのロゴマークはハートに横棒、そしてハートが閉じていないデザインは「愛を土台に、愛が溢れて広がりますように」そんな願いが込められています。
お菓子を食べた人の健康や幸せを心から祈って、この香住の地から愛がいっぱいに広がるように。
香苗さんは、辛い病気を経験したからこそ自分と同じ辛い思いをする人が少なくなるために普段から食事に気をつけ誰もが健康で元気であることを願っています。

香苗さんは店舗での販売の他に積極的なイベント出店も行なっています。1人だからできることも限られるけどlovingのお菓子が本当に必要な人に届くように配送サービスも展開したいそうで、Instagramでメッセージをもらえれば配送も対応可能とのことです。

明るく笑いながらパワフルに精力的に活動するその姿からは、死も覚悟するような大きな病気を乗り越え、人生をかけてお菓子を届ける香苗さんの愛が溢れ出ています。

低糖質お菓子の専門店 loving
住所:香美町香住区上計2-19
営業日:毎週木曜・日曜
営業時間:11:00〜17:00
※商品がなくなり次第終了
全国発送はInstagramのDMから
@20220415loving

地域の特産「香住梨」を守る若手農家の挑戦

地域の特産「香住梨」を守る若手農家の挑戦

地域おこし協力隊 梨生産業務 福井功一さん

地域おこし協力隊として、香美町に移住。香住の特産「梨」の生産業務を行いながら農林水産課でも働く福井功一さん。

全盛期には100軒近い生産者が支えていた香住梨の農家さんは、現在では40軒近くまで減少し、高齢化の課題も顕著です。

そんな中、梨農家としての就農を目指しながら任期満了となる3年目の地域おこし協力隊として日々の業務に励んでいる福井さんにお話をお伺いしました。

 

たどり着いた果樹栽培と観光農園

大阪の住宅地で生まれ育った福井さん。大学では森林や里山など環境や農の分野で学び、様々な分野で農業のインターンシップに参加しました。

路地栽培や工場内での水耕栽培など多様な農業を実際に体験していくうちに、自分にあっているものは果樹栽培なのだと感じるようになりました。

大学4回生のときに就活フェアで香美町と出会い、週末就農体験として梨農家さんのところにお手伝いに行きました。いろんなお話をする中で、香美町で梨農家をやってみたいという気持ちになりました。

しかし、いきなり梨農家としてやっていけるのか、体力面においても不安も大きく、また、教わっていた梨農家さんからも若いうちにもう少しまわりを見てきたらどうかと勧められたこともあり、まずは雇用就農で働くことを選択しました。

就職先を探す中で、経営方針や観光農園をやっているという点で合致する山口県の農業法人を見つけ、就職。

ぶどうと梨を主に栽培しており、住み込みで働きながらたくさんのことを学ばせていただきました。

精神面でも体力面でもだいぶ鍛えられたという福井さん。獣害の被害で木がまるまる一本ダメになってしまったり、木の抜根や植え替え、自分たちでハウスを建てる経験など、多くの知見を得ることができました。

そうして2年ほど働いた頃、大学時代にお世話になった香住の梨農家さんから、香美町で地域おこし協力隊として働かないかとお声がかかりました。梨の栽培は山の斜面を使って行われることも多く、農家さんの高齢化に伴い負担が大きく年々減少傾向にありました。

そんな中で福井さんのような若く梨農家を志してくれる人材は、とても貴重な存在です。

地域おこし協力隊として香美町に移住 

香美町に移住し、地域おこし協力隊としての任務をスタートした福井さん。

最初は農作業の業務と役場の業務とのバランスが難しく、苦労も多々ありました。

しかし、話し合いを重ねながら、梨農家としての業務を7-8割、役場での業務を2-3割程度で行うようにさせてもらい、3年目となる今年は、就農に向けた準備を着々と進めています。人が少なくなっている共同選果場を手伝いに行ったり、町やJAが行う「香住なしの学校」のお手伝いもしてきたりしてきました。

香住の梨は20世紀の品種が多く、昔は収穫時期や繁忙期に人を一度にたくさん集めて一気に作業したりという形で、栽培されていました。

しかし、現在ではなかなか人手が回らないことも多く、いろんな品種を植えてなるべく労力を均等化するよう工夫している農園も多くなってきています。

 

忘れられない感動の梨を目指して

梨の栽培は、梨の木の枝を落としたり、梨棚をつくり枝を這わせたり、袋を被せたり、日々の手入れが欠かせません。

栄養が木の隅々まで行き渡るように枝の先端を高くして括ったり、病気や虫が来ないように、美味しい梨を作るためには、年中の管理が必要です。

特に、今年はカメムシの被害が多く、また雨が少ないため実がなかなか太らずに、苦労したそうです。

高齢者の人が心が折れて辞めてしまう気持ちもわかると話す福井さん。

昨年は洪水による氾濫に園地が浸かり、危うく梨の実ギリギリのとこまで水が来たとのこと。それでも山口県で働いているときに食べた甘味と程よい酸味の梨の感動が忘れられず、その梨の味を求めて日々の作業に励みます。

 

香美町での暮らし

香美町の空き家バンクを活用し、戸建て住宅に住んでいる福井さん。

移住前に暮らしていた山口県では今よりも更に限界集落に近い場所での生活で、それに比べれば豊岡も近いので不便はなく、草刈りや防災訓練などの地域づきあいも色々な話ができて楽しく暮らせているとのこと。

梨農家さんは7、80代も多く、福井さんが農地を引き継ぐ梨農家さんも5,60年の梨を育てている大ベテラン。

地面の様子や天気によりどういう手入れをすればよいかというようなことを感覚的によくわかっているため、福井さんはその農家さんからもたくさんのことを教わっているそうです。

ゆくゆくは観光農園として、現地に来てもらい生の梨を食べてもらうことを目指して日々の農作業に励んでいる福井さんにとって、地域づきあいは目標に向かって協力してくれる仲間づくり関係性づくりの一環なのではないかと感じます。

長期的な視点で地域に溶け込む

福井さんが最初に香美町に出会ったのは大学生の頃。そこですぐに香美町に来るという選択肢もありました。

しかし、何度も通い農家さんと話をする中で、一旦は他のやり方も学び、地域おこし協力隊という受け皿ができてから移住という形を取りました。そうすることで、割と反発も少なく、お互いに負担がなくやって来れたのではないかと話します。

何事もゆっくりと進めることが大事。地域では、物事を進めていく前に顔を合わせ時間を共有することの方が重要な場合も多々あります。

いきなり移住を決めるのではなく、まずは足を運び現地の人たちと話をすることで理想との誤差が縮まり、地域にとっても移住者にとってもより良い形になるのではないかと福井さんは考えています。

山口県での学びを活かし、ゆくゆくは雇用もしながら観光農園を広げていきたいと語る福井さん。

そのためにもまずは香住梨の付加価値を高め、これ以上の規模を縮小させないようにしたいと決意されています。香住の特産「梨」の未来を背負い、若き農家が1人立ちへの離陸を始めています。

「数年前と比べて変化した僕たちの暮らし」

「数年前と比べて変化した僕たちの暮らし」

一般社団法人HiCO-BAY 伊藤 達巧さん

スタジオ K1 正垣 亮治郎さん

当サイトで4年前にそれぞれインタビューを受けた二人。あれから仕事や環境が変わり、地元への意識も変わったと言います。どのような変化があったのでしょうか。

(過去の記事)

正垣亮治郎さん
https://kamicho-ijyu.com/konwakai/

伊藤達巧さん
https://kamicho-ijyu.com/t_ito/

-まず、前回のインタビューから変わったところを教えてください

正垣:4年前の時点では香美町役場に勤めていたのですがあの後退職し、県外の映像制作会社に転職しました。その後、2022年に地元へUターンして映像制作の事業をスタートしました。今では企業のPR動画やYoutubeのコンテンツ制作のため企画・撮影・編集などを請け負っています。

伊藤:僕も転職しました。以前は保育士でしたが今は一般社団法人を設立し、 理事を勤めています。内容は多岐にわたり、法人事業として移住相談や空き地空き家などの利活用、個人事業としてアウトドアインストラクターや音楽活動などをしています。

正垣:仕事内容は大きく変わりましたが、実は仕事を回してくれるのは地元の知人・友人や、前職で知り合った人たちです。だから仕事で関わりがある人はあまり変わっていません。動画編集も元々趣味でやっていたことを仕事にしました。今は好きなことで生活できているので幸せだなと感じています。

伊藤:そうなんだよね。僕も以前は保育士をしながら趣味でまちづくりイベントや音楽活動をしていましたが、今はそれを仕事としてやるようになりました。地域の人との関わりは変わらず続いていますし、やってることはあまり変わっていないのかもしれません (笑)。都会で働きたいと思ったこともないですし、やっぱり地元が好きですね。

-地元・香美町への意識の変化はありましたか?

正垣:以前は「地域貢献」という言葉をとても意識していました。自分にできることは何か、地元の人に喜ばれるのは何か、移住者を増やすためには何をしたらいいのか、など考えていました。でも今は、一周回って力が抜けて「ここに住んで仕事していること自体が地域貢献なんじゃないか」と思うようになりました。

正垣:僕は結婚して子供もいますが、昔と違ってこの町で子育てすること自体が地域貢献だと思うようになりました。近くには両親もいてサポートもしてくれるので、頼れる人が近くにいるのは本当に恵まれていてありがたいことだと実感しています。地元の環境は大好きなので、このまま地元で育てていきたいです。

伊藤:僕はそれほど地元にこだわっているわけではないですが、仕事も生活も今いる場所で、まずは自分が楽しめることが一番だと思います。DJとして始めたキッズディスコは4年目になり、子どもから大人まで幅広い世代の人たちがイベントを楽しんでくれています。

僕は音楽を通して楽しむきっかけづくりができたらいいなと考えています。もちろん地域の人の意見を聞いて、町に対する問題意識もありますが、それぞれが自分の役割を果たすことで結果的にまちづくりに繋がると思います。僕の行動原理は「楽しいこと」。こだわりはそこだけです(笑)。

正垣:自分が面白いと思うまちづくりをすればいいので、もっと自分本位でいいと思います。

伊藤:「都会に出ないと面白くない」というわけではないので、やっぱり自分次第だと思います。

-田舎での出会いについて教えてください。

正垣:僕は結婚していますが、実は妻は関東の人です。音楽がきっかけで知り合いました。結構レアなパターンだと思います。正直、結婚前はなかなか出会いがなくて苦戦していました。マッチングアプリを使って、もし知り合いに当たったら気まずいですし(笑)。基本、引きこもりタイプなので若い時は苦労しました。

伊藤:出会いに関して、僕はあまり苦労した経験がないですね。あちこちイベントで動き回っていたので、友達や知り合いはたくさんできましたから。 もちろんそこから発展するかは別問題ですが(笑)

正垣: なんかカッコいいな(笑)。僕たちの周りの人たちは学生からの付き合いや、会社での出会いが多いと思います。田舎の人だと25~26歳くらいで結婚する人が多いイ メージです。俺たちはもう30歳前後だから遅いくらいです(笑)。

伊藤 :地元で見つけようとするよりもっと広範囲で考えた方が出会いは広がると思います。音楽フェスにもたくさんの人が来るし、人が集まるところには必ず出会いはあります。

正垣:で、今は彼女いるの? 結婚するの?

伊藤:それはノーコメントだよ(笑)。

-未来の夢や、今後やりたいことはありますか?

正垣:しばらくは子供を健全に育てることに集中します。せっかく自由がきく仕事を選んでいるので、ワークライフバランスを考えながら地元で子育てを楽しみたいです。

伊藤:僕は地元にもっと遊ぶところを増やしたいと考えています。駅の待合室、廃校、手入れが行き届いてない空き地や空き家などきちんと整備して活用していきたいです。自分のため、子育て世代の人のため、大切な人のためにみんなが集まって遊べるところを増やして、自慢できる場所にしていきたいです。

-最後に香美町に移住を考えている人にメッセージをお願いします。

正垣:僕は地元民ですが、地元の人の情報で空き家を紹介していただき、空き家バンク制度を使って今の家を見つけました。空き家は山ほどあるし、住むところはすぐに見つかると思います。移住ブームは落ち着きましたが、だからこそ狙い目だと思います。

伊藤:仕事に関しては、町内で無理やり探さなくても大丈夫だと思っています。近隣の豊岡市や鳥取市まで車で30分から45分程度なので十分通勤圏内です。近隣の町で働く選択肢も入れると、移住についての考えが少し軽くなり、 視野が広がると思います。

地元での仕事は人とのご縁で紹介してもらえることが多いので、できれば移住前から地域の人と関わって欲しいですね。僕は移住相談も受けているのでお気軽に相談してください。

お二人のインタビュー動画もぜひご覧ください。

大阪から「あの味」を求めて村岡に来たくなる、忘れられないラーメン

大阪から「あの味」を求めて村岡に来たくなる、忘れられないラーメン

大阪市福島区の焼肉店の中で営業していた人気ラーメン店が2022年10月に香美町村岡区にオープンしました。その名も「いっせーのーで 村岡店」。開店日にはご近所の人だけではなく、遠方からも多くの人たちが足を運びます。店主の西村一生さんは、村岡生まれの村岡育ち。大阪で6年間ラーメンの修行をし、満を持して地元村岡にお店をオープンしました。今も大阪と村岡の二拠点生活を送る一生さんと、妻の紗弥嘉さやかさんに、今の暮らしとこれまでの歩みを伺いました。

 

四季折々の風景と絶品ラーメンを味わう、村岡の古民家ラーメン店

北近畿豊岡自動車道八鹿氷ノ山インターから国道9号線沿いに車を走らせると、紅白ちょうちんとのれんがかけられた大きな古民家が目に入ります。「いっせーのーで 村岡店」は、一生さんのご実家の向かいにある古民家を改装して開店しました。引き戸を開けて広々とした店内に入ると、立派な墨書の屏風が目に入ります。

店内は広々とした空間で、テーブル席、カウンター席、座敷席にキッズスペースまで完備。窓際のカウンター席からは湯舟川を見下ろす四季折々の風景が楽しめます。メニューは、ラーメンや餃子、ごはんものはもちろん、但馬牛のバラ焼きやホルモン焼きなどの鉄板焼肉もあり、焼肉とお酒を楽しんだ後に〆のラーメンを頼むという最高の楽しみ方もできます。

提供するラーメンは、地元香美町・村岡ならではの素材を取り入れつつ、焼肉屋の間借りで営業していたころからの他にはないラインナップが目を引きます。一番人気は「ニボ牛(ぎゅう)中華そば」。ラーメンのベースは牛骨ではなく、なんと牛スジ。牛スジに煮干しをあわせたスープは、一口飲むと和牛の旨みが広がり、甘じょっぱさとコク深さがクセになります。それでいてどこかあっさり感もある、のどごしの良さが魅力のスープです。

(ニボ牛中華そば 税込み900円)

たっぷりの牛スジと大きめに切られたネギが食べごたえ抜群。つるっとした食感の麺にスープが絡んで箸が止まらなくなります。

香美町ならではのラーメンが食べたい!という人に人気なのが「香住カニ白湯(ぱいたん)ラーメン」。その名の通り、香住のカニのエキスをたっぷりと使い、アオサやナルトも入った海の香りがたっぷり感じられるスープが魅力です。一口飲むとカニの柔らかい甘みある出汁の風味が広がります。

(香住カニ白湯(ぱいたん)ラーメン 税込み950円)

厚みのある豚バラ肉と柔らかくあっさりした鶏胸肉の二種類のチャーシューがトッピングされ、あっさりしているのにボリュームもたっぷり。本物のカニを使った贅沢なラーメンスープは、お客様からの評判も上々です。

 

大阪と村岡・二拠点生活で地元の魅力を広める

大阪市福島区で人気だったあの味が、香美町村岡で食べられると評判の「いっせーのーで 村岡店」。大阪から高速を乗り継ぎ2時間半かけて来店したり、バスツアーを利用して来られたりと、前のお店からの熱烈なファンの方も訪れ、営業日は大いに賑わいます。なぜ、一生さんは人気だった大阪のお店を閉め、地元村岡で新しくお店を開いたのでしょうか。

(右 西村一生さん 左 紗弥嘉さん)

村岡で生まれ育った一生さんは、大学卒業後、地元で就職。同年代や自分より年下の世代がどんどん減っていく現状に危機感をもち、またお世話になった地元の人達にお礼をしたいという気持ちから、いつしか「自分のできることで、この地元を盛り上げたい」と志すようになりました。ラーメンの食べ歩きが好きだった一生さんは、「自分の好きなラーメンだったら地元に恩返しができるかもしれない」と思い立ち、慣れ親しんだ地元を離れてラーメン修行のため大阪へ。6年間修行する中で、一度もふるさとのことを忘れたことはなかったと言います。

修行先のお店で紗弥嘉さんと出会い、結婚。いつか村岡で自分の店を持ちたいという夢に向かって二人三脚で進み始めました。やがて新装開店の焼肉屋さんにアルバイトに誘われ、お二人の志を知っていたというオーナーから「半年間焼肉屋の昼ごはんとして、自分たちのラーメンを出してみないか」と声がかかります。それが、福島区で人気だった「いっせーのーで 福島店」の始まりです。半年間、お客様の反応を間近に感じながら、地元の食材で作ったラーメンで地元のPRもして、気に入ってくださった方にはぜひ村岡に来てもらいたいと、楽しく懸命に営業してきました。また、地元村岡での開業準備も並行し、物件を探し始めたちょうどのその時。実家の向かいの大きな古民家が空き家バンクに登録されるというタイミングにも恵まれ、開店準備は順調に進みました。地元の人から「よく帰ってきてくれた」「がんばってよ」と温かい声援を受けたことは、一生さんたちの大きな力になりました。

2022年10月末に村岡店をオープンし、月曜から土曜の昼までは福島店で、土曜夜と日曜日は村岡店で休みなく営業してきました。福島店は惜しまれながらも2022年末で閉店となりましたが、2023年春からは村岡店の営業日を金曜、土曜、日曜に増やしました。そして現在も平日は大阪の焼肉店で働き、週末は村岡店を開けるという二拠点生活を続けています。二拠点生活を続けているのは、地元のPRも兼ねてのこと。週末に村岡に来て貰える人を増やすため、平日は阪神間に向けて村岡での活動を伝え、阪神間の多くのお客様が村岡に来てくださることを目標としています。大阪府大阪市で育った紗弥嘉さんは、「もともと田舎というものが自分になかったので、田舎ができたのがうれしい。子どもにも、平日は都会で、休日は田舎でのびのび遊ぶという、いい経験をさせてあげられているかなと思います」と、この生活に前向きな様子。休みのない、忙しい毎日ですが、村岡をもっと盛り上げるため、夫婦二人三脚で取り組んでいます。

「美味しかった、また来るよ」の言葉をもらえた時が一番嬉しいと話す一生さん。「いっせーのーで 村岡店」そして村岡、但馬を盛り上げるためにまだまだやらないといけないことがあるとのこと。アーティストを招いて古民家ライブを開催したり、地元の子供会のクリスマス会にラーメンを提供したりと、単なる「ラーメン屋さん」の枠を超えた活動も展開しています。「村岡の良さはやっぱり人が温かいところと、四季折々を感じられるところ。何もないと思えるようなところが、逆に良さだと思っています」。村岡に一人でも多くの人が来て、「良さ」を肌で感じてもらえるよう、一生さんたちの挑戦はまだまだ続きます。

※いっせーのーで 村岡店は冬季休業中。再開は2024年4月20日(土)の予定です。2024年の営業は土曜日、日曜日、月曜日の祝日、 GW、お盆休みの夏季営業を予定しています。