こだわりの「ご当地アイス」を全国に! 時代とともに変わる事業継承の形

こだわりの「ご当地アイス」を全国に! 時代とともに変わる事業継承の形

村岡地域局のほど近くにお店を構える「やまざと」。まちの本屋さんや、階段を降りて入るタイプの、ほっとできる喫茶店。そして、「ご当地アイス」を中心としたアイスクリームの卸売・ネットショッピングを主な事業としています。今回お話を聞いた田中輝明さんは「やまざと」の四代目。形を変えながら家業の暖簾をつないできた、その内にある想いを伺いました。

 

「家業を継ぐ」ことへの葛藤と戸惑い

やまざと 田中輝明さん

 

「やまざと」でアイスクリームの販売を始めたのは輝明さんのお祖父さんでした。自家製アイスキャンディを作り、自転車で地元の人に販売。当時はたくさんの子どもたちが、お祖父さんの作るアイスを楽しみに待っていたといいます。先代・お父さんの代からはアイスの卸売販売を開始。冷凍車はなく、保冷車で地域のお店に配達していたお父さんですが、アイスを食べ頃のままに小売店に運ぶ、その手際の良さには定評がありました。

「やまざと」の長男として生まれた輝明さんは、当たり前に自分がこのお店を継ぐものなのだと考えていたといいます。村岡高校を卒業後、進学を機に神戸に移り、就職はそのまま神戸でアパレル関係に。やりがいのある仕事に刺激的な毎日、神戸で暮らす田中さんの暮らしには輝きがたくさんありました。いずれ村岡に帰るという思いはありながらも、阪神大震災からの立て直しなど目の前のことも忙しく、神戸で12年社会人生活を送った後帰郷します。帰郷後初めの2年は子どもと奥様を神戸に残して単身赴任のような生活。気持ちが落ち着く場所がなく、また家業にどのように携わればよいかわからず、戸惑いの多い日々だったといいます。

 

ご当地アイスを通して笑顔を届けたい

迷いながらの事業承継でしたが、「アイスクリームが好き」という思いはずっとあったと話す輝明さん。旅行等で地方に行くたびにアイスを食べ歩き、美味しいアイスに出会えたら「地元に帰ったらこんなアイスを取り扱いたい」と思い描くこともありました。また、先代がアイスの卸売をしてきた中にあった丹波篠山の黒豆アイスが好評だったこと、お客様からリクエストもあったことから「他の地域からもこだわりのアイスを仕入れられたらいいな」と考えるようになります。

仕入れやセレクトは、食べ歩きやネット取り寄せで、美味しいと思ったメーカーさんに直接アタック。都会で長く勤務していた経験があるからこそ、それまでの働き方が通用しなくて戸惑ったこともあるといいます。

「今思えば良くない態度を取ってしまい、取引を断られてしまうこともありました。一年経って反省し、再度お願いしたら『そこまで思ってくれるなら』と取引がスタートし、とてもありがたかったです。家業で生きていくに当たって謙虚であることの大切さを学ばせてもらいました」。人と人がつながる中で、輝明さんは新たな学びを得ていきます。

輝明さんが自らの目と足と舌でセレクトした極上のアイス。ただ卸をして販売をするだけでなく、バレンタイン・ホワイトデーなどイベントに適したセレクトセット、ヘルシー素材や美容にいいアイスのセット、小豆づくし・抹茶づくしの食べ比べセットなどのオリジナルセレクトセットとして販売しているのも注目ポイントです。

少しずつ取り扱いを増やしていった結果、やまざとは全国のご当地アイスを取り扱うようになりました。主に都心部や関東圏を中心に、人気を博しています。

「ご当地アイスと一口に言っても、それぞれ味が全く違い、個性があります。ぜひそれぞれ味わいながら食べてもらいたいです。アイスを食べながら怒る人はいません。アイスを食べるというのはあくまで過程で、それぞれの家庭の中にいつもアイスがあり、食べた人みんなが笑顔になる。そういう瞬間を提供したいと思っています」

 

雪国のアイス屋さんの奮闘ぶり

自分らしい形での事業確立に向けて

行き詰まる時に支えてくれるのは村岡の同級生や仲間たちの存在。今、主に喫茶を営んでいる奥様のはからいや人となりもあり、もともとの地元の友人だけでなく、帰郷してから更に人とのつながりが広がったといいます。集まる時には特に商売の話をするわけでもなく、楽しい話でひとときを過ごし、それがまた次への活力へ繋がります。

「今、長男は香美町を離れています。でも、もし長男がここに残りたいと言っていたら、『外に出てこい』と言ったと思います。今自分は、ここで取り組んでいる事業を確立させて、若い世代が『こんな仕事ができるならここに住みたい』と言ってもらえるような事業者になっていかないといけないと思っています」

お祖父さんが提供してきた地域の中での楽しみ、お父さんが築き上げてきた定評だけでなく、地域の人に「あんたがちゃんとやっている」と認めてもらえるように、このまちで事業を確立していきたい。それが今の輝明さんの中にある想いです。

「ずっとアイスに囲まれてきたんで、これからもアイスに囲まれてやっていくんだと思います」。自分らしい形での事業継承を見つけた輝明さん。コロナ禍で今まさしく時代が変化していく中、常に新しい事業や発信に目を向けながら進み続けます。

 

 

 

「自分にしかできないこと」ダンスを通して感動を届けたい

「自分にしかできないこと」ダンスを通して感動を届けたい

「好きなことを仕事にしたい」誰もが一度は考えたことがあるこの願いを、ふるさと香美町で自然体のまま叶えた女性に出会いました。D.S.T(ダンス・スペシャル・チーム)を結成した渡辺絢音さんです。絢音さんは今、香美町小代観光協会で事務の仕事をしながら、香美町村岡区・養父市・豊岡市・香住区など兵庫県北部を拠点にダンス講師を務めています。まだまだ香美町内では珍しい「ダンスの先生」。村岡生まれ、村岡育ちの彼女がどのようにして好きな仕事に至り、また続けているのか、お話を伺いました。

2020年1月19日㈰ 『やぶキッズダンス交流会』

 

憧れから独学で始めたダンス

幼少の頃から体を動かすことが大好きで、音楽が流れると勝手に体が動く子どもだったという絢音さん。ダンスに目覚めたきっかけは、偶然つけていたテレビで放送されていたダンス番組。しかし、ダンサーへの憧れを持ったものの、当時の村岡近辺に、ダンスを習える場所はありませんでした。ダンスという習い事や進路に理解のある時代でもなく、ダンスの専門学校に行きたいという希望も支持されずに断念。テレビ番組などを参考にしながら、絢音さんは独学でダンスを習得し始めます。

村岡高校を卒業後、保育士の資格を取るために兵庫県尼崎市に進学。ダンスのことは一旦脇に置き、資格に向けて歩み始めた絢音さんでしたが、同じ学校でチアダンスの経験がある友人に出会い、文化祭でのダンス発表チームに誘われます。

「一番厳しかった体育の先生が、私たちの発表を見て『ガラッと人が変わったようだった。最初から最後まで、まるで違う人みたいに見えたし、まるで空を舞う天女のように見えた』と褒めてくださって。いつも褒めるような先生じゃないので、驚くと同時にとても嬉しくて、ダンスの道のほうがやっぱり自分に合っているのかなと感じました」

その傍ら、都会での暮らしには息苦しさを感じていたという言葉も。せかせかしている時間の流れ、電車の時間に振り回されるような日々に、「地元に流れる時間が好き」なんだと自覚したと言います。

渡辺絢音さん

 

 

突然のお誘い…イチからクチコミで広げたダンス教室

卒業後は豊岡に移住、保育士として働いていた絢音さん。小さい子どもたちはもちろん好きでしたが、「なにか自分が本当にしたいことと違う」という思いが拭えず退職し、その後様々な仕事を経験しながら自分のしたいことを模索していました。

その中で、まちのための様々な企画を立案している人と出会い、唐突に「ダンス教室を開いてみないか」と言われます。ダンスは独学で、師事していた先生もいない、資格もない。それでもやってみたいことだったから頑張ろうと一念発起。豊岡市の兵庫県立但馬文教府の一室を借りてダンス教室を始めることになりました。

2019年6月2日㈰ 『ようかJAM』

SNSやクチコミでゆっくりと広がりながらチームメンバーが増えてきました。

現在は村岡の「スターリットスカイ」、豊岡市但馬文教府の「トラックス」、養父市おおやアート村ビックラボの「ディーエスティー」、香住の「トゥインクルオーシャン」など各地にチームを結成。

特におおやアート村ビックラボのチームは練習時間も3時間と長く、ダンスをとことん楽しみたい発展コースとしてレベルの高いチームになっています。村岡のチームにもクラス分けがあり、自分のレベルに合ったダンスを楽しめます。絢音さんは教室を運営しながらダンスのライセンスも取得し、指導の技術にますます磨きをかけてきました。

2021年12月5日には養父市民交流広場のホールにて生徒さんの第1回目の発表会を開催。講師は絢音さん一人という状況で舞台を作るのはとても大変でしたが、頑張っている子どもたちの姿を見た保護者からも感謝の声が絢音さんに届けられるなど、子どもたちにとっても絢音さんにとっても達成感のある一日になりました。

 

ダンスを通して子どもたちの心を解き放つ

2021年12月5日㈰ 『Dance Special Team発表会』 

「習いに来る子は保育園児から高校生まで。特に保育園児には年齢的に教えるのが難しいときもありますが、保育士として勉強してきたことが役に立っています。対面で子どもと左右逆に指導することや子どもたちとのコミュニケーションの取り方・指導の仕方など勉強してきたことをフルに使って子ども達が楽しく踊ることができているので勉強したかいがあったと思います。」

子どもたちにとってダンスの先生は、親とも学校の先生とも違う一人の大人。ふるさとで開いたダンス教室で、絢音さんはアットホームに子どもたちと関わることを心がけています。

できない、わからないと泣いている子どもには、できることから教えて、できたときには「できたやん!」とハイタッチをして勇気づけたり、「〇〇ちゃんならできると先生信じてるよ」と励ましたり。小さい生徒さんがぐずっていたら抱っこして落ち着かせることもあります。

2019年10月13日㈰ 『ハチ北ミュージックフェス』 

ダンスの楽しさを伝えたい。その傍らで、きちんとしなければいけないところも教えたい。ただ子どもと向き合うだけでなく、そこにダンスという要素が加わることで、絢音さんは子どもたちが成長していく姿を間近で感じられ、嬉しさと手応えを感じるようになりました。

「習い始めの頃の子どもたちは自分の気持ちや意見が言えなかったりしていたけど、続けるうちにやる気がどんどん出てきて『次はこれやりたい!』と主張したり、表現したりできるようになってくる。子どもたち一人ひとりとコミュニケーションを取って、できることを一つ一つやっていくことで、みんなで成長していきたいと思っています」

ときには自由な表現を促し、感情を込めたダンスを踊って欲しいと伝えることも。ダンスを通して言いたいことを言い合える関係づくりにも注力しています。

 

観光協会の仕事とダンス教室、2つの仕事をこなせる力の源は

小代観光協会内部。EVサイクルのレンタルも行っている

 

 

昼間は香美町小代観光協会で事務員を務める絢音さん。知り合いの紹介で勤めることになりましたが、この仕事に就いて改めて地元を新しい目線で見るようになったといいます。

「地元のことは意外と知らなかったんだなと。これまであまり足を運ぶことのなかった観光名所に実際自分で行ってみてると地図ではたどり着くのが難しいなと気づいたんです」

小代には秘境のような名所や見ごたえ抜群の滝などもありますが、オンラインマップでもたどり着くことができないような場所にあり、観光に来た人が迷ってしまうことも多々。

「今まであまり行ってこなかったからこそ、観光者目線に立って自分で行って写真を撮って、初めて来た人でもわかりやすい地図を作りたいと思っています。そして、もっと地元の良さを知ってもらうためにいつか観光地とダンスを融合させたプロモーションビデオ制作を実現させたいです。」

観光案内にSNSの発信、運営費用の管理など昼間も多くのタスクをこなす絢音さん。

二足のわらじを履くのは大変ではないのでしょうか。

「それが、どんなに疲れていても、どんなに悪天候でも、レッスンに行きたいと思うんです。自分にしかできないことだと思っているんで、子どもたちのやりたいという気持ちを汲み取って続けていきたいと思います」

一人で学び、一人で立ち上げ、一人で作り上げてきたダンス教室。子どものころ持っていた「こんなふうに習いたかった」を絢音さんは形にしてきました。忙しい暮らしの中でも、ダンスへの気持ちが、彼女を前向きにしてくれます。

 

  • 香美町小代観光協会SNS
  • FB
  • instagram
  • ダンス教室
  •  
    スターリットスカイ 毎週火曜日18時~22時 村岡中央公民館
  •  
    トラックス 毎週水曜日19時~21時 豊岡市但馬文教府
  •  
    トゥインクルオーシャン 月2~3回木曜日19時~21時 香住区中央公民館
  •  
    ディーエスティー 毎週金曜日19時~22時 おおやアート村 BIG LABO
  •  
  • ダンスについてのお問い合わせは、おおやアート村BIG LABOまで。
  • 所在地

    〒667-0315

    兵庫県養父市大屋町加保7番地

  • 開館時間
    9:00~17:00
  • 休館日
    水曜日 (ただし祝日の場合はその翌日)年末年始 12月28日~1月3日
  • TEL
Youtuberとして全世界に・次世代に発信する小代のプライスレスな魅力

Youtuberとして全世界に・次世代に発信する小代のプライスレスな魅力

デバイス一つで全世界と繋がる時代。故郷を離れて暮らす大人たちも、ふとした瞬間に幼い頃に過ごした場所を振り返ることがあります。懐かしいその地名を手もとのデバイスで検索してみても、多くの場合は基本的な情報のみで、今そこで暮らす人の雰囲気を感じるコンテンツにはなかなかたどり着けないものです。その点、香美町小代区出身の人はラッキー。地元暮らしを目一杯楽しむ7人の男たちの姿がすぐに目に飛び込んでくるからです。

 

地元のつながりから生まれた新しいコンテンツ

You Tubeで発信を続けている「ド田舎暮らしオジロちゃんねる」。普段は代表の西村太一さん、田尻和幸さん、長瀬優也さん、橋目恭男さん、井上弘貴さん、岡村俊貴さん、小林一樹さんの7名をキーメンバーに、小代を舞台とした遊び方やキャンプ、但馬牛の話などを等身大の目線で発信しています。

「小代の魅力を世界に発信!」というコンセプトの動画作成は、小代にある自然豊かな光景を楽しめるのはもちろん、7人の男たちのワチャワチャ感や仲良し感、友達と話しているような身近さを感じられるのも魅力です。

今回お話を伺ったのはメンバーの中でもキャンプ場の管理人をしている西村さんと長瀬さん、家業の葬儀場を後継した橋目さん、以前WONDERKAMIでも取り上げたスミノヤゲストハウスを運営している田尻さんの4人です。

(左から、長瀬さん、橋目さん、田尻さん、西村さん)

 

メンバーは全員小代・村岡出身の同年代。それぞれ進学・就職などで一度は故郷を離れたものの、様々なきっかけでUターンしてきました。幼い頃から一緒になって遊んできた仲間、また友達の友達としてなんとなく顔見知りだった彼らは、消防団や村のイベントなど、帰郷後に顔を合わせる機会が増えました。そして小代のスポーツチーム「ぴゅあ♡ぴゅあ」に所属し、バレーボールや野球を楽しむうち、新しいコンテンツとして「You Tube」というキーワードが出てきたといいます。

 

「香美町 小代」で検索したら出会える7人の男たち

「みんなでYou Tubeをやろう」そう言い始めたのは代表の西村さんでした。西村さんは小代生まれの小代育ち。大学進学を機に小代を離れて生活しているとき、度々故郷を恋しく思うことがあったといいます。

「なにかふるさとに繋がる情報がないかなと動画を検索しても、ライブカメラの映像しか出てこなくて、懐かしむこともできない。でも、同じような気持ちで検索しているのは僕だけじゃないんじゃないかと思った」

いつかふるさと小代に帰ったら、小代の何気ない暮らしを発信できるような動画を作りたい。大学時代に思いついたアイディアの種は、帰郷後しばらく温められ続けましたが、メンバーの結婚式余興ムービーを作ったことをきっかけに芽吹き始めます。

いつも笑いが絶えない7人のノリをそのままに、グルメ紹介や小代クイズなど、多彩な情報が届けられ、チャンネル登録者は1380人(2021年12月時点)。脚本のない素のままのトークが好評を呼んでいます。地元関係者には欠かさずチェックする視聴者も多く、コメント欄には故郷を懐かしむ声が書き込まれることも。

「今まで小代と全く繋がりがなかった方からも、『動画見てます』と声をいただけるとすごいな、うれしいなと思う。小代を離れて働いていたときの友人からも、『偶然動画を見つけた』と連絡をもらうこともあります」と、7人の動画が広がりつつあるのを実感している様子。

もちろん、小代で幼少期を共に過ごし、今は都会で働いている同年代からは「見てたら帰りたくなるわ」という率直な声も届くなど、離れていても地元に繋がれるツールとしても動画が役立っています。

 

結婚、子育て…忙しいライフステージで彼らが発信を続ける理由

メンバーで牛飼いの小林さんが語る、牛飼いの仕事のホントのところ。但馬牛が絶対食べたくなる食事シーンも見逃せない!

結婚や子育てなど、メンバーそれぞれのライフステージの変化から、結成当初のように頻繁な動画撮影は難しくなっているものの、動画のアイディアはたくさん湧いてくるというメンバーたち。収録を重ねるごとにカメラにも慣れ、動画を作り上げる意識が高まり、より多くの人に楽しんでもらえるものを、と様々なコンテンツにチャレンジする意欲が出てきています。

15年間放置された廃墟露天風呂をグランピングに! 長編シリーズです。

「今後は、香美町の面白い人や、村のおじいちゃん、おばあちゃんとなにかするムービーなど、人にフォーカスする動画も撮っていきたい。僕たちは動画を通して場所だけでなく、人を発信しているので」

素晴らしい自然や景色、おいしい食べ物もさることながら、小代の「人」にあるプライスレスな魅力を彼らが発信し続けるのにはわけがあります。

「『小代の魅力を世界に』と思う一方で、一つの大きなターゲットとして、小代にいる小・中・高校生がいます。子どもたちが動画を見て、自分たちの将来像を思い浮かべてもらったり、一度ふるさとを離れたとしても、『大人になって、小代に帰ってきて、楽しそうに生活している大人がいたな』と思い出してもらったりするとうれしい」

子どもたちが「地域でおとなになる自分像」として身近に描けるビジョンを映像で届けるのもド田舎暮らしオジロちゃんねるの一つの使命です。

子どもの時から自然と触れ合ってきたメンバーが挑む、筋金入りの川遊びは、レベルが違う!

 

「移住をしたくなるまちというのは、僕たちのように地元で育った人が、一度出てもまた帰りたくなるような場所でないといけない。住みたくなる場所を目指す前に、『帰りたくなる場所』を目指して発信をしていきたい」

楽しく、熱く、面白おかしく。様々なライフステージにありながらも、7人の発信に向けるエネルギーはとどまるところを知りません。

 

 

地域おこし協力隊から漁師・庭師へ。3年間全力で地域と向き合い続けた男が出した結論

地域おこし協力隊から漁師・庭師へ。3年間全力で地域と向き合い続けた男が出した結論

地域が抱える課題に対して、その地域で暮らしながら地域協力活動を行う「地域おこし協力隊」。地域おこし協力隊の任期は最長3年ですが、その間に地域でたくさんの体験をし、地域の人と広く深くつながれるのがメリットの一つです。2021年3月末に香美町地域おこし協力隊の任期を満了し、新たな道を歩み始めた房安晋也さんに、地域おこし協力隊の活動で得たものと、これからへ向けた想いを伺いました。

房安晋也さん

 

一人の人間として、地方と向き合いたい。「地域おこし協力隊」という選択

房安さんが生まれ育ったのは鳥取県気高郡青谷町(当時)。小学校在学中、いわゆる平成の大合併により、気高郡青谷町をはじめとする8町村が鳥取市と合併し、気高郡青谷町は鳥取市青谷町に。小学校は町立から市立になり、房安さんの卒業と同時に閉校になりました。子ども心に感じた「地元がなくなっていく」という感覚は心の中に残り続け、その体験から大学では地域学を専攻しました。

卒業論文では、沖縄県の共同売店について研究。共同売店とは、地区ごとに村民が共同出資し共同運営する売店のことで、単なるお買い物の場としてだけでなく、地域のコミュニケーションの場としても活用されています。とりわけ、国頭村くにがみそん安田あだの共同売店「安田あだ協同店」(http://farmthefuture.jp/ada/index.html)の取り組みに、今後の地域活性のヒントを感じた房安さんは、安田地区に3週間住んで、集落の環境や人間関係、地域に根づいた仕事など様々なところに顔を出しながら調査をしました。体当たりで集落の人間関係に飛び込み学んだ経験から、「学生としての立場ではなく、一人の人間として地方と向き合いたい」と、地域おこし協力隊を志すように。

大学の先生に勧められ、知らないまちだった香美町へ。「育った青谷町も海や山があるまちでしたが、香美町はいちいちスケールがでかくて自然がガチ。その雄大さに惹かれました」

流れるように香美町の地域おこし協力隊に就任した房安さんでしたが、そこからの3年間はとても色濃い日々が続きます。

 

 

村岡高校教育コーディネーターを通して得た刺激と、新しい仕事へのビジョン

 
村岡高校教育コーディネーター当時の房安さん

房安さんの地域おこし協力隊としてのミッションは、地域おこし協力隊の中でも特に業務が多いといわれる村岡高校の教育コーディネーターでした。村岡高校では、全国募集の「地域アウトドアスポーツ類型」のうちの地域創造系で、地域の課題に積極的に取り組む授業が受けられます。また、総合的な学習の時間「地域元気化プロジェクト」では、地域で開催される「みかた残酷マラソン全国大会」や「村岡ダブルフルウルトラランニング」に全校生徒がボランティアで関わるなど、地域との結びつきが強い学びの機会があります。その学びのなかで、地域から多くの外部講師を招くことがあり、その外部講師と学校をつなぐのは教育コーディネーターの仕事の一つです。積極的に地域と関わりたい思いを持つ房安さんにはピッタリの任務でした。

「地域の外部講師の方と話すうちにだんだん自分のことを覚えてもらえるようになってきて、地域のことを考えている講師の方々や、地域で積極的に活動している方とつながることができました。コーディネーターの魅力の一つは、仕事を通じて何度も地域の人と関わることができ、深く、仲良くなれることです」

村岡高校の生徒たちには、「この地域をどうするか」を自然と考える雰囲気があり、その姿勢にも刺激を受けました。とりわけ、地域に関わる取り組み方に一目置いていた生徒から、「房安さんはまだまだ地域バカじゃないですね」と言われたことは大きな奮起となりました。

村岡高校協力隊時代の房安さん

 

「自分自身がダイレクトに、地域の中に労働者・生活者として入っていきたい」

村岡高校で働きながら、週に3度はプライベートで香住に行き、釣りをしていたほど釣り好きの房安さん。香美町の地域おこし協力隊も3年目になる頃、漁師として働くという夢が徐々に現実味を帯びてきました。協力隊の上司に想いを話すと、上司の知り合いの船長さんを紹介してもらえた上、たった5分の面接で採用決定。あっという間に夢が形になりました。

「たまたま縁あって来た香美町が、面白いところだった。香美町は広いから、面白い人が広範囲に点在しているので、本気で出会いに行くと、いろんな生き方や職業とも出会えます」

地域おこし協力隊の3年間の活動が、実は長期間の「就活」につながることもある。だから、香美町の協力隊になる人は、とにかく3年間真面目にまっすぐに香美町と向き合ってほしい、そう房安さんは語ります。

 

漁師、そして庭師。香美町で暮らすことを選んだ彼のこれからの挑戦とは

2021年の4月に漁師デビュー。房安さんが乗るのは底引き漁の船。6月から8月は禁漁で、取材日は8月のため、漁師として経験を積んだのは実質2ヶ月です。海底に底引網を沈め、引航して行う底引き漁は、非常に過酷な仕事だと言われています。

「4月5月は凪なので、朝出て、ホタルイカを取って、夜帰ってくるという生活サイクルでした。9月からは、一回の漁に2~3日かかり、先輩からは『地獄見るから覚悟しとけよ』と言われています。短期的な目標は、とにかく底引きの船の過酷さをまず経験して、乗り越えること。長期的には一緒に漁をする仲間が増えたらいいなと思っています。香美町だけでなく、漁師はどこも後継者不足という課題があります。でも、潜在的に漁師に憧れている人はいっぱいいると思っていて、思い切って飛び込んでくれる人が世に広がっていったらいいなと思っています」

禁漁の時期は、房安さんにとってお休みの時期……ではなく、大切なもう一つの仕事に取り組む時期です。教育コーディネーターの仕事を通して知り合った小林良斉かずひとさん(https://kamicho-ijyu.com/cms2/buyuden/)のもとで、庭師の見習いもしています。

「年間で2ヶ月しか関われませんが、庭師もとても面白く奥深い仕事です。もっと時間があったらもっと関われる分だけお世話になって、漁師と庭師、2本の柱として生きていけたら理想です」

香美町では、夏の間は牛飼いと農家、冬は酒造りというような、季節労働が昔から行われてきました。単なる出稼ぎと言ってしまえばそれまでですが、自分の経験と興味と縁で仕事をつなげて生活する土壌があるとも言えるのではないでしょうか。

「香美町での暮らしは、ふんわりした『田舎暮らし』ではなく、面白いことができて、厳しいことの中にも光るポイントがあります。香美町は輝ける場所が見つかるまちなので、世の中に不満があったり、くすぶったりしている人に向けて、香美町での生き方を広げていく人になりたいと思っています」

まずは秋から、厳しい底引き漁に挑む房安さん。数年後、漁師の経験を経てのストーリーをまた伺いたくなるようなインタビューでした。

「必ず牛が返してくれる」牛と向き合う仕事のやりがいと抱負

「必ず牛が返してくれる」牛と向き合う仕事のやりがいと抱負

赤身の味わいと、サラッとした脂身の絶妙なバランスで、世界中の食通から高い評価を受ける但馬牛。香美町のある兵庫県美方郡は、独自の育種改良により、日本のブランド和牛の原点となる良質な肉牛を育ててきた地域としても知られています。他の農業と同じく、畜産農家も高齢化が進み、質の高い食文化を次世代につなげる若い担い手の不足が深刻になっています。その時勢の中、香美町村岡区にはご夫婦と研修生という3人で若い力を合わせ、「良い牛」を生み出すために力を尽くす「森脇畜産」があります。ご主人の森脇雄一さんと奥様の芙紗さん、スタッフの佃みのりさんにお話を伺いました。

 

日々牛と向き合い続ける繁殖農家の仕事

ご主人の森脇雄一さんは村岡区出身。ご両親が牛飼いの仕事をしている姿を見て育ち、高校卒業後は神戸市の精肉店で経験を積みました。食肉について学ぶうち、牛を飼うことの奥深さを感じて帰郷。父・薫明しげあきさんのもとで畜産の経験を積んでから、2012年に独立しました。

森脇雄一さん

 

いわゆる「牛飼い」には、母牛に子牛を産ませておよそ月齢9ヶ月まで育てる「繁殖農家」と、繁殖農家が育てた子牛を大きく育てる「肥育農家」があります。森脇畜産は繁殖農家で、母牛の出産に立ち会うのはもちろん、肥育農家に「良い牛」を届けるため餌の配合やタイミング、運動の内容など日々技術を磨いています。

森脇畜産の一日は、早朝の餌やり、除糞から始まります。一段落ついてから自分たちの朝食を取り、その後午前中は牛を牛舎につないでブラッシングをしたり、牧場の手入れをしたり。午後からも同じように餌やりと除糞を行い、牛たちの変化や体調に気をつけながら作業をどんどん進めていきます。また牛たちにとって、日光浴もとても大切。天気が良い日には外に出して歩かせるのもいい子牛にするためには欠かせません。香美町内では、近隣の耕作放棄地に畜産農家が牛を貸し出して放牧する『レンタルカウ事業』が行われており、使われない農地の保全も兼ねながら、牛たちの日光浴の時間も確保しています。

「生きもの相手の仕事なので納得の上ですが、やはり毎日の餌やりや突然の出産があるので休みは取れません。でも経験を積むうちに、牛の状態を適切に見られるようになり、『いつもと表情がちがうぞ』とか、一人ひとりのことがわかるようになりました」

日々牛たちに手をかけ続けることで手応えを感じると語る雄一さん。2020年には大きなやりがいを感じる嬉しい出来事もありました。

 

共進会でグランプリ、裏打ちする丁寧な関わり

2020年11月に開催された第102回兵庫県畜産共進会(但馬牛の品質を競うコンテスト)に、種牛の部で森脇畜産が出品した「たかとみ5」がグランプリの名誉賞に選ばれました。審査員からは、牛の体型や肌ツヤの良さ、まっすぐな背線、肩つき、後ろから見て美しいひし形であることなどが評価されました。

「とても嬉しかったですけど、プレッシャーも感じています。これからもっと技術を高めていかなければと身の引き締まる思いです」と雄一さんは話します。

「グランプリを初めていただいて、それはそれは嬉しかったです」と話すのは、奥様の芙紗さん。兵庫県市川町で生まれ、雄一さんの帰郷とともに畜産に関わり始めた当初は、驚きと戸惑いの連続でした。

森脇芙紗さん

「犬や猫も飼ったことがなかったのにいきなり牛、みたいな。牛は度々脱走するし、なめられたり蹴られたり、大変だらけでした。自分たちの見落としが原因で分娩事故につながることもあるし、生きもの相手の仕事は難しいです」

慣れない牛飼いの仕事に奮闘する芙紗さんでしたが、なぜか雄一さんが牧場を離れているとき限って突然の出産が始まるなどのハプニングもあり、その度に事態を受け止めながら対応し、場数を踏むことで成長を重ねてきました。

「続けるごとに、『そろそろ産むかな』とわかってきて、子牛の体調不良にも早く気付けるようになってきました。はじめは嫌だなと思うこともありましたが、難しい分やりがいのある仕事でもあります。手を抜くと病気も増えてしまうし、手間を掛ければかけるほど、大変ではありますが大きくなってくれたり良い牛になってくれたり、必ず牛が返してくれます」

日々牛たちと向き合いながら9年、その技術が認められる繁殖農家に成長した森脇畜産の活動に注目が集まります。

 

若い力で発展させたい、食肉文化と但馬牛の品質

佃みのりさん

そして森脇畜産には、頼れる若いスタッフ、佃みのりさんの存在も。みのりさんは兵庫県西脇市出身。農業大学校に通っているときに、雄一さんの父・薫明さんの牧場で研修を受け、卒業後は森脇畜産で牛飼いとしてさらなる修行を積んでいます。「脱走は大変だけど、牛が可愛いから、牛飼いは楽しい」と語る佃さん。雪の多い香美町での暮らしに戸惑うこともありますが、ここで経験を積むことで「良い牛を丁寧に育てられる牛飼いになりたい」と夢を語ります。

牛飼いを志すことについて雄一さんは、「(みのりさんのように)牛が好きな人が一番。休みがない分、牛と触れ合うことを楽しめることが大事です。現実は大変なことも多くあり、牛が死んでしまうこともある。でもメソメソしている時間はなくて、これを繰り返さないためにはどうしたらいいか、次を見据えていく目は必要です」と話します。

若い力を受け入れることで森脇畜産はさらなる成長を遂げ、新たな未来を見据えています。

「今後は、繁殖だけでなく肥育まで、さらに僕自身に肉屋で働いた経験があるので、人の口に入るところまで見届けたいという思いがあります。長く守り続けられてきた純血の但馬牛を、いま自分たちが飼わせてもらっているという自覚をもち、一連の流れを自分たちでやることで、但馬牛は他の牛と比べて特別なんだということをお客様に直接伝えたいと思っています」

伝統と品質で知られる但馬牛。その品質を高めるためにチャレンジを続ける若い担い手たち。食肉文化、ひいてはこれからの食文化をより豊かにしていくために、日々丁寧に牛と関わり続けていきます。

香住で感じる時の流れと、ここならではのビジョン

香住で感じる時の流れと、ここならではのビジョン

香美町への移住のきっかけのひとつに、結婚などライフステージの変化があります。香住生まれの山田航大さん、大阪生まれの楓さん夫婦は、神戸・尼崎での会社員生活から一転、結婚を機に航大さんの実家がある香住にお引越し。それから1年、気取らず自然体に香住ライフを楽しむお二人に、香住ならではの暮らし方や人との繋がりについてお話を伺いました。

香住が好きなのに、なぜ自分は都会にこだわってるんだろう。

 

香住生まれで香住育ちの航大さん。地元に愛着はありましたが、進学で神戸市に移り、そのまま就職。楓さんと出会い、特に問題を感じることもなく日々を過ごしていました。そんな航大さんの気持ちを大きく変えるきっかけになったのは但馬方面への出張だったといいます。

「その時に実家に泊まっていてふと、『なぜ自分は都会にこだわってるんだろう』と思ったんです。急にひらめいたように、『だったら仕事をやめて帰ってこよう』と言う気持ちがでてきて」

山田航大さん

測量士の資格を持つ航大さんは、香住から通える範囲内で仕事を探しました。現在の通勤時間は車で一時間。少し長いようにも感じますが、「これぐらいが仕事とプライベートの切り替えができ、自分だけの時間も持てるので丁度いい」と感じています。

同時に楓さんとの結婚の話も固まり、ともに香住で住むことに決定。ただ、大阪生まれ、尼崎で働く楓さんについては「こんな田舎でやっていけるのだろうか」という心配も、航大さんにはありました。

 

暮らしの違いに戸惑いながらも、日々を楽しく過ごせる理由

 

「私が育ったのは河内長野市で、大阪と言っても山が近くにあり、田んぼも少し歩けばあるという環境です。それでも住宅街だったので、ここに来て一軒一軒のスペースが広いなと感じました」と、香住の第一印象を話す楓さん。尼崎市で働いていたときは、仕事帰りにショッピングモールやカフェに立ち寄り気分転換をしていたのが、香住に来てからはできなくなり、「今は慣れましたが、最初はちょっと戸惑いました」と話します。

結婚し、香住で暮らすことが決まり、航大さんのすすめで楓さんは㈱トキワに入社。移住する前に不安や戸惑いはなるべく解決しておくことで、スムーズに新生活へ移行することができました。

山田楓さん

「実際に住んでみて、ちょっとしたお出かけができないことや、移動はほぼ100%車になっちゃうこと、普段の医療は大丈夫ですが産科が町内にないことなど、結婚して嫁いでくる人にとってはちょっと大変かな」

それでも楓さんが香住の暮らしを楽しめているのは、「夫を通しての人とのつながりがあるから」。航大さんの中学・高校時代の友人は繋がりも強く、畑や小さなキャンプ場を自分たちの手で作るなど、楽しみ方をどんどん生み出していきます。

「お金のかからない、田舎ならではの大人の本気の遊びっていうのが不思議な感覚で楽しいです。またそのメンバーでもある伊藤達巧さんが、レンタルスペースglassで『香美町まちなか移住相談室』を開いているので、仕事帰りに立ち寄っていろいろお話して帰ったりするのも気分転換になります」

仕事もあり、週末の楽しみもあり、多彩な活動をする人とも早く繋がれたことが、香住ライフを充実させていると話す楓さん。「よそ者だからと言う雰囲気はなく、飛び込みやすい環境や、ぱっと入っても大丈夫なウェルカム感があります」と、香住の人の良さには太鼓判を押します。初めは楓さんが香住での暮らしに馴染めるのか心配していた航大さんも今の様子に安心しているそうです。

 

 

仕事も遊びも「農業」も、暮らしを充実させる柱

取材場所:㈱トキワカフェスペース

 

日々の仕事や、友人たちと行う本気の遊びのほか、航大さんと楓さんが大切にしているのが「農業」の時間。航大さんの実家が管理する広大な田んぼを休みの日に手伝います。全く初めての農業ですが、「家族だけなので気を使わず、開放感のあるところで自分のペースで農業ができてストレスフリーです」と笑顔を見せる楓さん。幼い頃からご両親の農業をする姿を見て育ってきた航大さんも、「職場での仕事とはまた違う、気晴らしのようなもので、農作業があるからこそ自分があるというありがたみも感じている」と話します。

地域で若い方が農業をしている姿は珍しく、高齢化で農業に携われなくなった方から「うちの田んぼも世話してほしい」と頼まれ、年々管理する土地は増えているとのこと。

「兼業農家とは思えないくらいの量をこなしているので大変ですが、自分たちのためにもなることだから。ゆくゆくは(香住区)三谷みたにの全域に携わることができたらというビジョンもあり、将来的には農業だけで生きていくのが夢です」と航大さんは力強く話します。

「なぜか香住だと時間がゆっくり流れる。なぜかはわからないけれど、この不思議な時の流れが好き」と話すお二人。夏は思い切り農業を営み、冬はゆったりした時のなかのんびりと過ごしながら、航大さんは大好きなスキーをするなど、今ここでできる季節ごとの楽しみを満喫しています。地域全体のこれからもビジョンに入れ、一日一日地に足をつけて歩むお二人の姿が印象的でした。

 

棚田百選に選ばれる絶景と、人が集まる拠点で作る、新たなまちづくりの形

棚田百選に選ばれる絶景と、人が集まる拠点で作る、新たなまちづくりの形

山々に囲まれた土地に見られる「棚田」。山の斜面を有効活用して作られた段差型の田んぼは、日本の伝統と文化を思わせる原風景とも言えます。代掻(しろか)き後、水を張った田は周囲の景色を映し、秋はこぼれんばかりの稲穂が頭を垂れる、まさに棚田は日本が世界に誇る絶景です。

うへ山の棚田

香美町小代区にも、日本中から、そして世界から人々が訪れる美しい棚田があります。貫田地区の「うへ山の棚田」です。1999年7月農林水産省によって「日本の棚田百選」の一つに認定され、田植えや稲刈りの季節には多くの人がカメラ片手に訪れる、話題のスポットでもあります。しかし、傾斜地で段々になっているため、大型の機械での手入れができないなど、棚田の維持には平野部の田んぼ以上の労力が必要です。自然の中に息づく美しい風景も、そこに暮らす人々のたゆまぬ努力によって守られ続けているものなのです。

現在「うへ山の棚田」を守っているのは地元の有志グループ・「俺たちの武勇田」のメンバー。それぞれ普段は建築関係・造園関係、福祉関係、公務員など本業に勤しみながら、休みの日や空いている時間を使って棚田の保全に努めています。その活動の根底にある思い、棚田のもつ可能性について、メンバーの田尻幸司さんと小林良斉かずひとさんにお話を伺いました。

この日活動に参加した「俺たちの武勇田」メンバー

 

「外から目線」で気づく、地域の財産

結成当初からのメンバー、田尻幸司さんは幼い頃からこの絶景とも言える棚田の風景を当たり前に眺めて育ってきました。

「うへ山の棚田を美しい景色などと意識したことはありませんでした。子ども時代は稲刈り用のコンバインもなく、バインダーで刈った稲を稲木にかけて風向きを計算して干して……。美しさよりも、手伝うのが煩わしいなというような思い出でした」

田尻幸司さん

 

大人になり、自らが中心となり米作りをし始めたのも義務感によるものが大きかった田尻さんの意識を変えたのは、「外の人」からの視線だったといいます。

「当たり前過ぎて、中にいたらわからないものですね。でも観光に来た人がキレイだキレイだと写真を撮っている姿を見たり、小代の棚田が棚田百選に選ばれたことを知ったりすることで、『これは素晴らしいものだったのか』と気づかされたという感じですね」

大型の農業機械で作業がしやすいよう、圃場(ほじょう)整備が進む現在では、棚田のようにもとある地形を生かした形での田んぼは少なくなっています。
「でも、この形で残っていることこそがすごい。この形のままで、この形のままがええんだと今は思います」
自然とともに暮らしてきた先人たちの知恵と労力の結晶である棚田が作り出す風景は、いつしか地域のみんなの誇りになっていきました。

村一丸となり守り続ける「うへ山の棚田」の風景

ところが2010年を過ぎた頃から、うへ山の棚田の一部に耕作をしていない様子が見られました。田んぼの持ち主に話を聞くと、「もう、よう(米を)作らへん(作れない)」とのこと。地元からも観光客からも愛され続けるうへ山の棚田の風景、その一部が荒れてしまうことに地域の誰もが危機感を覚えました。うへ山の棚田の所有者を中心に、「なんとかこの風景を守りたい」という、その思いに賛同する貫田地区の住民が結束。2012年、耕作されなくなった田んぼを荒起し、代掻き、田植えと手探りのまま作業が始まりました。

それぞれに本業もあり、耕作経験のないメンバーもいる中、村の年配の方からは「若いもんらには無理だ」「最後までできんだろう」という厳しい声もあったといいます。しかしその一方で、苗を提供し、器具や肥料の知識を伝え、耕作のノウハウを教えてくれたのもまた、村の先輩方でした。

「棚田それぞれに個性があり、『じゅる田』といって水はけが悪い田んぼなどは早めに水を切る必要があります。でも当初はそれを知らず、足がぬかるみに取られて動けないまま稲刈りをしたり、稲刈りの時期に雨が降ったりと大変苦労しました。コツも村の人達に教えてもらいながら、年々経験を重ねるごとに棚田一枚一枚の個性がわかってきたような感じです」

トライアンドエラーの連続を乗り越え、「俺たちの武勇田」の活動は多くの人に注目されることになりました。そしてそのことが、後にうへ山の棚田に新たな転機をもたらすことになるのです。

外との関わり、そして移住、ゲストハウス…貫田地区の新たな可能性とは

田植えの様子

 

経験を積みつつ新たな休耕田を引き受けながら活動を広げてきた「俺たちの武勇田」メンバー。活動資金は本業の休日に、集落の水道タンクを清掃したり、水路の整備をしたり、スキルを生かして頼まれごとを引き受けたりする「ホリデ~交業」で調達。

「そしてその資金で、みんなで酒を飲む。作業で集まってもその日のうちに飲む。それがあるからみんな楽しんで参加できてる」というように、コミュニケーションの場がメンバーの絆を深めてきました。

生き生きと活動するメンバーの様子が話題を呼び、小代小学校での活動発表や、小代中学校の体験学習、村岡高校の総合的な学習の時間の授業等で中高生を受け入れるなど、地元との交流も増えました。そして、「俺たちの武勇田」メンバーの小林良斉さんが窓口となって、神戸市の夙川学院大学(当時)観光文化学部をはじめとした都市部の大学生も受け入れ、田植えや稲刈りの作業もともに行うようになりました。受け入れた大学生の中には、「ゼミの一環として」来たはずが、うへ山の棚田のあまりの絶景ぶりと人の温かさに惹かれ、ついには移住してゲストハウスを開いたという田尻茜さん(旧姓・北田さん)の存在も。茜さんとうへ山の棚田との出会いが一つの転機となり、うへ山の棚田は観光スポットから一歩踏み込んだ、「関わりしろのある場所」として認識され始めてきました。

 

田尻茜さんのストーリーも「WONDERKAMI」で紹介しています。

小林良斉さん

「茜さんが学生時代から周囲に声掛けをしてくれていたことで、地元以外の方も継続してうへ山の棚田に関わり続けてくれるようになりました。、若い人が集まって草抜きのイベントをしてくれるなどの風景を見ると心強いです。若い人と関わるのはこちらも楽しいですし、小代の人は外から来た人に対してもオープンな人たちなので、うへ山の棚田と長く、毎年関わってくれるような人たちがこれからも増えたらいいなと思っています」と小林さんは希望を持って話します。

守りたくなる美しい風景。そして関わり続けたくなる人のつながりと、人が集まりやすい拠点の存在。貫田地区の人達と、守られ続けてきた棚田の存在がもたらす、地域づくりの新しい可能性にこれからも注目が集まります。

 

2021年田植えに参加したメンバー。地元の人、遠方からの家族連れ、鳥取大学の学生さんなど

 

「これぞ村岡の味」まろやかで優しい矢田川みそで届ける心豊かなくらし

「これぞ村岡の味」まろやかで優しい矢田川みそで届ける心豊かなくらし

日本の伝統ある発酵調味料、味噌。かつての日本では、どこの家庭でも味噌は手作りの「手前味噌」、伝統的な家庭の味、地域の味がありました。村岡区の道の駅「あゆの里矢田川」でもお土産として好評の「矢田川みそ」もまた、香美町を代表する美味しい味噌の一つです。

今回お邪魔したのは「矢田川みそ」の生産・販売を行う農業法人「むらおか夢アグリ」。作業場に一歩足を踏み入れた瞬間、大豆と麹の甘く濃厚な匂いに包まれます。

農家の冬仕事ともいわれる味噌づくり。むらおか夢アグリでも農閑期である12月から3月を味噌づくりの期間に当てています。息の合った作業の合間にユニークな掛け声が飛び交い、味噌づくりの現場は終始和気あいあいとした雰囲気です。

 

ふるさとの味「矢田川みそ」再生のストーリー

 

むらおか夢アグリの設立は、令和元年9月。農業者の高齢化により増えている荒廃農地の復活・再生なども行う建設工事会社「村岡アグリファーム」の子会社・農業法人として生まれました。春から秋は再生した田畑の手入れ、冬は味噌づくりという、昔ながらの雪国の農家さんのような暮らしを体現しています。

矢田川みそが生まれたのは20年以上前にさかのぼります。道の駅あゆの里矢田川がオープンした平成11年、「地域の産品を生かした特産物を」と地元射添いそう地区の婦人会が中心になり「野いちごグループ」を結成、レシピ開発をしたのが始まりです。

 

矢田川みその材料は地場産大豆、地元のコシヒカリを使って手作りした米麹、塩のみ。まろやかで甘味がある優しい味が特徴で、兵庫県が認める安心・安全の証「ひょうご推奨ブランド」にも選ばれています。地元の人からも観光客からも人気が高く、道の駅でも土産物や贈り物に好評を博した矢田川みそですが、生産者の高齢化などにより、平成28年を最後に生産中止となりました。

 

矢田川みその在庫が尽きてからも、販売中止を惜しむ愛好者たちの声が多く寄せられ、道の駅を運営する地域住民グループ「大平おおなる会」のメンバーたちは、「お客様の声になんとか答えられないか」と一念発起。新たに地元の女性たちを集めて野いちごグループの元メンバーに教えを請い、直伝のレシピで矢田川みそを復活させました。復活した矢田川みそは愛好者からも「変わらぬ味」と太鼓判を押され、ふたたび道の駅の看板商品になりました。その大平おおなる会の代表者が村岡アグリファームの代表でもある仲村正彦さんです。


(「むらおか夢アグリ」の皆さん。旗を持っているのが仲村さん)

「みんなに愛され続ける矢田川みそを安定して提供できるように」という思いから、仲村さんは子会社むらおか夢アグリを設立。令和元年の冬からは大平会直伝のレシピでむらおか夢アグリのみなさんが味噌づくりを受け継いでいます。味噌の熟成には約一年かかるため、令和2年の後半からむらおか夢アグリの味噌が市場に出回り、これもまた矢田川みそならではの甘くまろやかな味がそのまま受け継がれていると大好評です。


(パッケージは一新、中身は伝統の味をそのままに)

「ここなら楽しく働ける」人とつながり生きがいを感じる現場として

「ここ(村岡)には、山もあり、川もあり、自然の豊かな恵みがあります。おいしい食べ物がたくさんある、とてもいいところです。ここだったら元気で働けるという人もいると思うし、ここの良さを伝えていきたい」と語る仲村さん。荒廃農地の再生を通して、若い人も働きやすい場所として、地域を押し出せたらとも考えています。矢田川みその後継をきっかけに子会社のむらおか夢アグリを立ち上げる際、「リーダーシップと行動力がある素晴らしい人」とかねてより評していた地域の女性・今井裕子さんをその代表の座に据えました。


(むらおか夢アグリ 代表 今井裕子さん)

「まさか自分が創業・起業に関わると思っていなかったので驚きました」と話す今井さん。戸惑いもたくさんあったそうですが、荒廃農地を再生して地域を活性化したいという仲村さんの志にも共感し、この地で愛されてきた矢田川みそを多くの人に届けたいと奮闘しています。

 

「矢田川みその原料は自分たちで作りたいと、去年(令和2年)初めて会社で農業をはじめました。私も従業員も農業の専門家ではないので地域の人や県の農業改良普及センターの方に教えていただきながら技術を少しずつ身につけています。今後少しずつ圃場ほじょうも広げながら、挑戦も広げていきたいと思います」


(米麹づくりが今井さんの一番好きな行程)

 

従業員は気心の知れた地元のメンバーばかりで、何気ない会話に笑顔がこぼれる温かい雰囲気。「この会社を設立したのは、地域の人や退職した人がもう一度現役で働ける場を作りたいという思いもありました。70代の方も、『元気がもらえるから』とみなさん喜んで来てくださるのでありがたいです」。

 

地域で楽しく働いてもらうために大切にしているのはコミュニケーション。お昼ごはんは持ち回りで昼食当番さんが作り、従業員みんなで食卓を囲みます。朝礼、お昼ごはん、終礼で必ず顔を合わせるという距離感が、良い雰囲気に繋がっています。

(昼食の様子)

 

今後の目標は、かつて野いちごグループが作っていたという最大10トンのみその生産。「手作りの限界に挑戦する気持ちです。楽しく働ける現場なので、これから味噌づくりに関わる仲間たちもどんどん増やしていきたいですね」と今井さんは笑顔を見せます。手作りならではのまろやかさが多くの人に愛される矢田川みそ。「これぞ村岡の味」とより多くの人に親しんでもらえるよう、今井さんとむらおか夢アグリの皆さんは目標に向かって突き進んでいきます。

 

むらおか夢アグリ 

所在地:〒667-1362 美方郡香美町村岡区原14-3

TEL 0796-80-2154

FAX 0796-80-2242

営業時間 平日 8:00~17:00

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