「ハチ北ミュージックフェス」と「ハチ北の人たち」に惹かれて

「ハチ北ミュージックフェス」と「ハチ北の人たち」に惹かれて

香美町村岡区、鉢伏山の北東山麓に広がるハチ北スキー場。開業は1969年という歴史ある老舗スキー場です。その雪質とやや中級者向けのコースが好まれ冬はスキー・スノボ客で賑わう一方、実は毎年、夏本番前にも見逃せない音楽イベントが開催されます。ハチ北ミュージックフェス(以下ハチ北フェス)は、初夏のゲレンデという雄大な自然風景の中行われる野外フェスです。

 

2023年ハチ北ミュージックフェス・来場者の様子

 

最高のロケーションで味わう美味しいご飯とお酒と心躍る音楽に会場にいる人々の笑顔が弾けます。年々注目度が高まるハチ北フェス、その実行委員のお一人であるムッティーさんにお話を伺いました。

ムッティーさん

 

ハチ北フェスに出会い、ハチ北フェスのために移住

ムッティーさんは京都市で生まれ育ちました。12歳でギターと出会い、16歳で京都河原町・新京極通で初ライブを開催。その頃から音楽の道で生きていくと心に決め、現在は日本・台湾・韓国などでライブ活動をするポップス集団「KINEMAS」でギタリストとして活躍するほか、京都市西京極で音楽スタジオを構えオーナー業を営むなど、音楽のためにあちこち飛び回る毎日です。

ムッティーさんが初めてハチ北を訪れたのは2018年。ハチ北フェスのブッキング担当からフェス運営を手伝ってほしいと声をかけられたのがきっかけです。ハチ北フェスの中心メンバーと意気投合し、フェスと直接関係ない時期にもたびたびハチ北を訪れるようになりました。

 

2023年ハチ北ミュージックフェスにて撮影

 

国内・海外で数々のフェス作りを手掛け、出演してきたムッティーさんにとって、ハチ北フェスは大きな魅力を感じるとともに、人手不足や発展性の面などで課題を感じるフェスでもありました。2019年からはハチ北フェスを総合的にプロデュースするようになり、京都に住みながら、香美町メンバーと連絡を取りあってフェスづくりに取り組んできました。熱が入るほどに浮き彫りになったのが『距離』の問題。地元のメンバーなら当たり前に知り、肌で感じていることをプロデューサー側が分かっていないという現状では、ハチ北フェスはこれ以上良くならない。ならば住んだほうが早いと肚を決め、2022年8月、ムッティーさんはハチ北に移住しました。

 

2023年ハチ北ミュージックフェス・実行委員として

 

生産する暮らしと、ハチ北の人に惹かれて

生まれたときから京都に住み、幅広い地域を飛び回り活動してきたムッティーさんが、はじめて故郷を離れて住む場所にハチ北を選んだ決め手は、「ハチ北の人たち」でした。山の人間の強さ、強さに裏打ちされた優しさと温かさ、自然を相手に生き抜いていくための知識。その全てが印象深く、「この人たちから学びたい」とムッティーさんは強く感じました。

都会の暮らしでは、食品でも日用品でもあらかじめ整えられたものが既にあり、お金を稼いでそれを購入するのが当たり前。生活のリアリティを感じることが希薄で、ただ消費することの繰り返しのように感じていたというムッティーさん。しかし、ハチ北の人たちは、当たり前のように自分たちでお米や野菜を作り、動物たちと共存して暮らしている。そのシンプルで生産的な生活を目の当たりにし、好奇心が刺激されたそうです。

 

2023年ハチ北ミュージックフェス・設営

 

家もハチ北フェスで知り合った人のつながりで見つけました。今住んでいるのは、もともと簡易旅館だったという木造二階建ての物件。現在は、その物件を奥さまとハチ北フェスを通じて知り合った大工さんと一緒に、少しずつ改修しながら暮らしています。改修にあたっては、香美町の空き家の改修費に関する補助制度を活用しました。「このペースだと何年かかるかわからない」と笑うムッティーさんですが、わからないところは地元の人に聞きながらマイペースで学びつつ、家の改修を楽しんでいます。

 

2023年ハチ北ミュージックフェス・設営

 

ハチ北に来て強く感じるのが「村としてのつながり」。ムッティーさんが育った場所でもかつては地域のつながりや町内会のイベントがありましたが、大人になるにつれ希薄になり、廃れてしまったそうです。ハチ北では村の自治会、区の総会、盆踊りやまつりなど地域の催しが残っていて、ムッティーさんはそれらに積極的に参加し、懐かしくも新鮮に感じる日々です。地域住民の強いつながりはありますが、ムッティーさんのようなIターン者も温かく受け入れてくれたといいます。移住する前から、ハチ北フェスの関係で何度も何度もハチ北を訪れていたので、地元の人にとっては安心感があったのかもしれません。ムッティーさん自身、村の文化や歴史を学びたいという意欲が強く、村の人達もその意欲に応えて優しく何でも教えてくれる、そんな良い関係が築けています。

2023年ハチ北ミュージックフェスにて撮影

 

ハチ北と近隣地域で手を繋いで、新しいチャレンジの生まれる場に

ハチ北という場所は、1時間圏内で香住、小代はもちろん城崎、豊岡、湯村など但馬のほとんどの地域にアクセス可能です。この立地を活かし、但馬全域で連携を取ることでハチ北フェスはもっと広がりを持つのではないかとムッティーさんは考えています。音楽は国境をも超える。香美町というまちはまだ合併してから年数も浅く、香住、村岡、小代の3つの区はまだまだ連携していける余地があります。そんな香美町のみんなで手を繋いで新しいことにチャレンジしたい。そのチャレンジの生まれるきっかけの一つが、ハチ北フェスになれば良いと考えています。

 

2023年ハチ北ミュージックフェス・KINEMAS演奏風景

 

ハチ北フェスでは、「K-106」や「バグダッド・カフェ・ザ・トレンチ・タウン」など、普段阪神エリアで活躍するミュージシャンが多数出演します。これはハチ北にとっても貴重なことで、都会で活躍するミュージシャンの方にとっても、自然豊かなロケーションで演奏することは希少な機会です。場所とミュージシャンが相互にリスペクトしあえるような特別な空間がそこにはあり、不思議な居心地の良さを感じます。

「でもこの魅力は言葉では伝えきれないので、ぜひ来て、雰囲気を感じてもらいたいなと思っています」と話すムッティーさん。他のフェスにはない、雄大なロケーションとのんびりした雰囲気、フェスが初めてという人でも自然にくつろげる要は空気感。ハチ北フェスをきっかけにハチ北に集まる人同士がゆっくり繋がりながら、新しいものが自然発生していくような場所になればという思いを持ちながら、ムッティーさんは次のハチ北フェス開催に向けて日々活動しています。

 

2023年ハチ北ミュージックフェス・KINEMAS演奏風景

 

石材加工の技術を磨き、未来に残るものを作りたい

石材加工の技術を磨き、未来に残るものを作りたい

香美町の香住地区で、墓石や記念碑などを多数手がけてきた山﨑石材株式会社。石を選ぶところから、据付やリフォームまですべての工程を一貫して行い、地域の方の生活に根ざして長く親しまれています。今回は、ここに3代目としてUターンしてきた、山﨑良さんにお話を伺いました。

 

山﨑良さん

 

身近だった石材加工業に後継を決意

 

良さんは、香住漁港間近にある山﨑石材の長男として生まれ、高校時代までを香住で過ごしました。海に近い環境ではありましたが、子供の頃の遊び場は海ではなく、近くの神社だったと言います。そこに行けば約束していなくても必ず誰かがいて、年齢を越えて遊ぶことができました。人数が集まると野球が始まり、良さんも野球を教えられ、夢中になりました。少年野球チームに入り、中学・高校でも野球を続けるなど、スポーツが大好きな子ども時代でした。

 

野球の傍ら、子どもの頃から家業もよく手伝ってきた良さん。おじいさんに連れられ、石材加工の現場にもよく行きました。石材加工の仕事には石を墓や石碑の形に加工するだけでなく、文字を彫刻する作業もあります。お墓や石碑に文字を彫るには、文字を彫る石材の一面にマスキング用の特殊なゴムシートを貼り、そのゴムシートに文字の形を写し、彫刻するところを切り取ります。それからサンドブラスト機という空気で砂を吹き付けて彫刻する機械を使って文字を彫り、完成したら貼りつけたゴムを剥がす。そのゴム剥がしは良さんが担当することも多く、石材加工の仕事はいつも身近にあったため、イメージしやすい仕事でした。

 

字彫りの作業中

 

弟や妹がおり、また異年齢で遊ぶ機会が多かったこともあり、良さんには保育士になることを夢見ていた時期もあったといいます。それでも、幼い頃から現場を見てきたこと、家業を継ぐ長男であるという自覚などから、石材業を後継することを意識するようになりました。豊岡市の工業系高校に進学し、将来的に必要になりそうな、車両系建設機械の資格などを取得。卒業後は、村岡区の中島石材店・中島雄大さんからの紹介で、中島さんと同じ愛知県岡崎市で修業を積みました。中島雄大さんについては、「WONDER KAMI」で、2019年に取材をしています。

 

中島石材店・中島雄大さんの記事

 

修業で愛知県岡崎市へ。香美町を離れたことで見えてきたもの

 

良さんの作品、石灯籠

 

愛知県岡崎市は日本三大石製品産地として知られています。良さんは石材の現場で修業を積みながら夜間学校に通い、石灯籠やお墓など、石材加工の技術を磨きました。加えて当時行われていた、名古屋城の本丸御殿の再建に関わる加工もさせてもらえるなど、貴重な体験もあったとのこと。小・中・高と野球に打ち込み、体力には自身があった良さんでしたが、石材加工の現場は思った以上に過酷でした。今まで使わなかった上半身全体の筋肉を使うことになり、うまく力が入らないという問題に直面。筋力アップのため、仕事の後に、先輩と一緒にジム通いをするのが当時の習慣であり、気分転換の時間でもありました。

 

お墓だけでなく、様々な作品を手掛ける

 

岡崎市は愛知県の中でも比較的都会であるため、香美町に比べると人と人との繋がりが希薄です。地域の人の目を事あるごとに感じながら過ごしてきた幼少期に比べて、岡崎市での人との距離感は、良さんにとって心地いい部分もありました。それでも香住は住み慣れた場所で、人との繋がりはある程度あった方がいいと思うようにもなり、修業を経て戻ってくる時には、帰るのが楽しみになっていたそうです。

 

石材の魅力は「残ること」。自分の作った作品を伝えたい

 

懐かしの地元に帰ってきた良さんですが、子ども時代一緒に野球チームをやっていた仲間で、今も地元にいるのはわずか2人。少し寂しくもありますが、毎年お盆に開催される「香美町盆野球大会」には大勢の仲間が帰省し駆けつけてくれます。また、香住に帰ってからは香美町商工会の青年部にも入り、町内の異業種との繋がりも多くでき、最近では青年部の繋がりでゴルフも楽しむようになりました。子どもの頃と楽しみ方は変わりましたが、体を動かすことが好きな良さんの生活は今も充実しています。

 

また、商工会青年部に関わるようになって感じたのが、圧倒的な人手不足。特に自身のような20代の人材は不足し、どの会社も求人が課題になっています。そこで、香美町に移住・定住してくれる人が増えるよう、婚活イベントなども企画中です。良さんが考える最大の香美町の魅力は、自然。一つの地域に、海も、山も、川も揃っていて、人も温かい。人との距離感が近いことに関しても、世間で「ワンオペ育児」が問題視される中、地域全体で子育てをする雰囲気が自然と備わっている香美町のような場所は一つの解決への糸口になるかもしれません。

 

良さんの叔父さん・山﨑大作さん

 

現在、山﨑石材は良さんのお父さん、叔父さんとの3人で石材加工を行っています。良さんが、石材加工に感じる一番の魅力は「残るもの」であること。高校時代に毎日何気なく眺めていた、豊岡市の市役所前や竹野駅前にある記念碑は、お父さんが手掛けたものだということを、良さんは最近知ったといいます。そしていつか、自分が家庭を持ち、子どもが生まれたら「これはお父さんが建てたんだよ」と伝えられたらいいなと良さんは考えるようになりました。

 

 

しかし、長年職人として研鑽を積んできたお父さん、叔父さんに比べて、「やっぱり自分はまだ技術が全く足りていない」と感じることも多々あるとのこと。研磨の工程では、最後の光り具合が、自分と2人とで全く違うと感じ、何度もやり直し、行き詰まってしまうときもあるのだとか。そんな時は2人からコツを教わりながらもう一度取り組みます。昨日より今日、今日より明日とどんどん技術力を上げていけるよう、石と向き合い続ける日々です。

 

 

 

 

 

 

 

「泳ぎ」で育む子どもの笑顔

「泳ぎ」で育む子どもの笑顔

 

心肺機能の向上や体力づくりのため、子どもに水泳を習わせたいと考える保護者は多いのではないでしょうか。香美町では、毎年5月末から9月まで、香美町立香住B&G海洋センターのプールが開放され、毎週土曜日に小学校3~6年生を対象とした水泳教室が開催されます。今回は、この水泳教室に講師として30年以上関わり続けてきた寺川理生てらかわみちおさんにお話を伺いました。

香美町立香住B&G海洋センター

海とともに育った寺川さんの方向転換

 

寺川さんが生まれ育ったのは香住の柴山地区。家のすぐ裏に海があるという環境で、子ども時代はいつも海で遊んでいました。生き物を捕まえたり水の中に潜ったり、楽しいことはいつも海の中にあり、遊びの中で自然と泳ぎも体得。「毎日絶えず泳いできて、泳ぎには自信がありました」

その後、漁師をしていた親の跡を継ぐため、香住高校の漁業科(現在の海洋科学科)に進学。高校時代は水泳同好会に入会し、甲子園プールで行われた県大会にも出場しました。

 

寺川理生てらかわみちおさん

高校卒業後は漁師として、夏はイカ釣り漁に、冬は松葉ガニ漁にと忙しい日々を送ります。海に慣れ親しんできた寺川さんにとって、漁師はやりがいのある仕事でしたが、転機は30代のときに訪れます。結婚し、子どもが生まれ、「家庭」を顧みたときに、寺川さんの心は変わっていきました。「拘束時間の長い漁師という仕事では子どもたちと関わる時間が少なくなってしまう。もう少し育児に携わる時間がほしい」そう考えていた頃、印刷業を営んでいた弟さんからも「手伝ってほしい」と頼まれ、船を降りることを決意。30代半ばで漁師をやめ、それ以降は兄弟でまちの印刷屋さんとして活躍しました。

 

泳ぎの輪が広がる、地域の水泳指導

水泳教室に関わりはじめたのは40代半ばの頃でした。当時しばらく泳ぐことから離れてしまっていた寺川さんでしたが、学生時代一緒に泳いでいた同級生から声をかけられたことをきっかけに、また泳ぎの世界に戻ってきました。

独学で身につけてきた泳ぎも、香住B&G海洋センターの水泳教室に関わるようになってからは、泳ぎ仲間と切磋琢磨してブラッシュアップ、現在に至るまで数々の大会に出場しています。

泳ぐ楽しさを十分に知り、また子どもが大好きだと話す寺川さんにとって、子どもたちに水泳を教えるのは大切なライフワークの一つです。対象学年は小学校3~6年なので、4年連続で参加する子どももいます。年が変わるたびに少しずつ成長する子どもたちの姿を見るのも、楽しみの一つです。30年以上続ける中で、親子2代に渡って水泳を教えるというケースも出てきました。そして、まちなかで水泳を教えた子どもたちに声をかけてもらえるのも、寺川さんにとってうれしい瞬間です。数十年が経ち、子どもだった生徒さんが大人になっても、声をかけられれば不思議と当時の顔や名前も思い出せるとのこと。子どもたちにとっても寺川さんにとっても、水泳教室の時間は忘れられない、楽しい思い出になっているようです。

 

自信と達成感が子どもたちの大きな成長につながる

 

寺川さんの子ども時代と違い、現代は子どもだけで海に泳ぎに行く機会はなくなりました。水泳教室に来る子どもたちは、泳ぎに自信がある子から、水に恐怖心を持ってしまっている子までさまざまです。水泳教室では複数の講師で関わることで、それぞれのレベルに合わせたきめ細かい指導を行っています。泳ぎに自信のある子は夏の記録会にどんどん出場し、また冬場でも近隣の温水プールに連れて行って但馬地域の水泳記録会に参加するなど、レベルアップも目指せます。

夏の水泳教室では、初回と最後に記録を取りますが、どの子もひと夏で大きな伸びを見せてくれます。自分がどれだけ早く泳げるようになったかを知ることで自らの成長に達成感を覚えて輝く、その時の子どもたちの表情は寺川さんの元気の源です。

 

レンズ越しに見るまちの変化と、水泳教室のもう一つの役割

 

寺川さんのもう一つのライフワークが「写真」。地域の文化協会の活動を写真に収めるほか、地元小学校の卒業写真撮影なども行っています。

母校の柴山小学校に撮影に行くと、水泳教室の子どもたちに出会えるのはうれしいことですが、それと同時にまちの子どもが減ったことも実感すると言います。柴山小学校の現在の児童数は、寺川さんが通っていた頃の4分の1になりました。町内の小学校の児童数はどこも少なく、アットホームで安心感のある環境になった分、進学等で新しい集団に馴染むのに困難を感じることもあるかもしれません。その環境の中でも、水泳教室では香美町の複数の学校から子どもが集まっているので、水泳教室を卒業した子どもたちから「新しい進学先に、水泳教室で知っている子がいた」「(水泳教室で仲良くなった他校の子と)高校で再会して、今でも仲がいいよ」と、寺川さんに報告があるそうです。体力や筋力をつけたり、大きな記録に挑戦したりすること以外にも、水泳教室から子どもたちが得ていることは多くあります。

地域の大人たちから直接泳ぎを学べる、香住B&G海洋センターの水泳教室。4年間、毎年シーズンの間、切磋琢磨し合う関係を培うのも、子どもたちにとって良い学びと思い出になることでしょう。寺川さんたち講師の方々も、また来年、新しい笑顔に出会えることを楽しみにしています。

 

「やっぱり海が近くにないと!」地元香住で子育てをする選択

「やっぱり海が近くにないと!」地元香住で子育てをする選択

生まれも育ちも香住。海を間近に感じて育った竹内若菜さん。自然に囲まれた環境が肌に合い、故郷を離れることはこれまで考えたこともなかったと言います。自分が育った環境と同じようなのびのびとした自然いっぱいの環境で子どもを育てたいと、今2歳と0歳のお子さんの育児に勤しむ若菜さんに、これまでの歩みと今の暮らしについてお伺いしました。

竹内若菜さん

 

海いっぱいが思い出の遊び場!アクティブな子ども時代

若菜さんが生まれ育ったのは、香住区のなかでも東側、佐津小学校の校区にあたります。佐津地区は静かな海岸が広がり、夏場には多くの海水浴客が訪れる場所です。昭和30年代後半のレジャーブームから旅館や民宿も増え、若菜さん自身も民宿を営むご両親のもと、3人きょうだいの真ん中として育ちました。幼い頃から、家には多くのお客様が訪れる環境でしたが、実は人見知りだったと話す若菜さん。少し恥ずかしがり屋の一面はあったようですが、豊かな自然と海に囲まれて育ち、子ども時代は毎日とてもアクティブに過ごしていました。

「あまり家にいることはなくて、常に外で遊んでいました。放課後はいつも小学校の校庭や海にいて、学校の友達ともその近辺で遊ぶことが多かったです。海で友達と集まって話したり、車も来ないので海岸と学校のフィールド一杯を使って鬼ごっこをしたり、毎日元気いっぱいに過ごしていました」

子ども時代、広々とした場所で思いっきり体を動かして過ごした経験が、若菜さんにはとてもいい思い出として残っています。

 

香美町には香住区の他に村岡区と小代区がありますが、海と山といった自然環境の違いにより生活や文化が異なっています。雪がとても多い山中にある村岡区・小代区の小中学校では、冬期の体育の授業でスキーを行います。授業時間を一日中スキー場で過ごす日もあり、身近な文化として「スキー」が根づいています。しかし、同じ香美町でも香住区はあまり雪が多くないため、スキーと疎遠で過ごす人は珍しくありません。そんな香住区で育った若菜さんですが、ご両親の影響もあり、幼少の頃から小代へスキーに行くのが冬の楽しみのひとつでした。スキー以外にも物心つく頃には将来働くことになる豊岡市のスイミングスクールにも通い、香住第二中学でも進学した豊岡市の高校でもバレーボール部に所属し、日々の練習に打ち込みました。その結果、スポーツ大好き、体を動かすことが大好きな女の子に育ちました。

 

大好きなスポーツを仕事に。子どもを授かり得た新たな視点

高校卒業後、地元で製造の仕事についた若菜さんでしたが、やがてスポーツに関わる仕事がしたいと考えるようになりました。そしてその頃、幼少期に通っていたスイミングスクールの求人情報を目にしたのです。思い切って面接を受け、転職。今はご自身が教わってきたコーチたちと肩を並べて、水泳の指導に励む日々です。

自然があって海がある。地元を離れることなど考えられなかった若菜さんでしたが、周りの同級生の多くは香住を離れ、それぞれのフィールドで活躍しています。その分地元に残ったメンバーの横の繋がりもでき、地元の同世代で集まって食事会や飲み会を楽しむ機会もありました。同じ香住出身のご主人と出会ったのもその集まりの時。通った学校が違うため、地元の同世代でありながらその時までお互い面識がなかった二人ですが、スポーツ好きという共通点とこれからも地元で生きていきたいという価値観が合い、結婚。2021年に長男、2023年に次男を授かりました。

自身が母親になったことで、水泳指導のコーチという自分の仕事にも大きな影響がありました。小さい子を教室で預かるときに、子どもが泣くのはごく当たり前のことと考えていた若菜さん。心配するお母さん方に「任せてください、大丈夫ですよ」と構えていましたが、いざ自分が母親となり人に子どもを預ける側になると、母親の心配する気持ちを実感しました。今まで子どもを預けてくださっていたお母さん側の気持ちを強く感じるようになり、これまで以上に、「大切なお子さんを預かっている」という意識が高まったと言います。

 

「母校がなくなってしまう…」でも、新たな出会いを受け入れて進む

子育てにあたり、「自分が自然に囲まれて育ってきた分、子どもたちも同じように育ててあげたい」と考える若菜さん。かつて自分が遊んだ小学校や海などで子どもたちと一緒に遊ぶのもルーティンの一つです。

「でも、周りに同世代の子どもが少ないことは寂しいです。それに私が通った佐津小学校、香住第二中学校も合併してなくなることが決まって、私にとっては地元の母校がなくなってしまうんです」

地元に残ることで、寂しい思いをすることもあります。都会みたいに歩いてすぐのところにコンビニエンスストアがあるような、便利な暮らしはいいなと思うこともあります。でも、「やっぱり海が近くにないと」と笑顔を見せる若菜さん。育ってきた故郷の風景に勝るものはありません。

そして、故郷にいることで新しい出会いもあります。香美町生まれでなくても、Iターン先に香美町を選ぶ人たちと関わる機会がその一つ。移住者との関わりは、「ずっと地元にいた自分とは見る視点が違う」と刺激を受けることも多いそうです。移住者が増えて同じように海の近くで子育てをできる仲間が増えたらいいなと、若菜さんは願っています。都会の令和生まれの子どもたちにはなかなか体験できないような、自然の恵みをたっぷり受けた子育ても、ここならできます。のびのびとしたアクティブな子育てに興味がある方は、ぜひ若菜さんにも出会ってみてください。

(撮影場所・しおかぜ香苑)

余部にゆるやかな「時」を過ごせる場所を

余部にゆるやかな「時」を過ごせる場所を

明治45年の完成以来、北近畿に住む人の交通を支え続けた余部橋梁。平成22年にはコンクリート橋に架け替えられましたが、旧橋梁と変わらず空を行き交うような汽車の風景が楽しめます。「焼き菓子と珈琲のお店 【時と】」があるのは、この余部橋梁を望む絶好のスポットです。「コーヒーマイスター」の資格を持つ店主の山西香奈子さんが営むこのお店には、ほっと一息つきたい人、誰かにお菓子を届けたい人など、遠方からもお客様が訪れています。

焼き菓子と珈琲のお店 【時と】

 

「誰かやってくれないかな」がいつしか「自分でやってみよう」に

山西さんは同じ美方郡の新温泉町の出身で、結婚を機に余部に移住しました。同じ美方郡内ということもあり、大きなギャップもなく、最寄りの小学校である「余部小学校」は全校生徒が15人程度で、みんなが家族のように育ち、のびのびと子育てができる環境を気に入っていました。人と関わることが好きだった山西さんは、3人の子育ての傍ら、販売や飲食などの仕事に就き、充実した日々を送っていましたが、時折物足りなく感じることがあったといいます。

山西香奈子さん

「子どもを連れて立ち寄れるところが少なくて、お散歩も、道の駅の公園の周りをウロウロするだけでマンネリ化してしまって。香住駅近くまで行くと色々あるのですが、この余部に、子育ての合間にほっと立ち寄れるようなお店があれば良いなとずっと思っていました」

 

余部橋梁は、橋梁の下から見上げるだけでも迫力があり、更にそこを汽車が通れば圧巻。豪華寝台列車『TWILIGHT EXPRESS 瑞風』が走り抜けることもあり、いわゆる撮り鉄の人にも人気のスポットです。さらに、展望施設の余部鉄橋「空の駅」からは、広大な日本海を見渡すことができるなど、バスツアーのお客様などに人気のスポットでもあります。しかし、どんどん便利になっている鳥取市と京都府宮津市を結ぶ山陰近畿自動車道を利用する人たちにとって、余部は「通り過ぎられる存在」だと感じてしまうことが山西さんにはありました。また、自慢の絶景である余部橋梁も地元の人にとっては「いつでも見ることができる存在」になり、買い物や飲食となると、余部ではなく香住駅周辺に行くことが多いため、余部に人が来なくなってしまう危機感を覚えたと言います。

「橋梁だけでなく、ここに来たいと思ってもらえるようなお店を誰か開いてくれないかな」

余部に来てからずっと抱いていたそんな思いは、「私がやってみようかな」へといつしか形を変えていきました。

ブレない軸で乗り越えた、ワンオペ開業準備

「このまちで何かをしたい」そう思った山西さんですが、アイディアはいくつか出てくるものの、うまく形にならない状態が続きました。大きな転機になったのは末のお子さまが保育園に入ったころに勤め始めた香住のケーキ店内併設の喫茶店での経験でした。お客様とのふれあいが楽しかったのはもちろん、サイフォンで入れるコーヒーの奥深さに惹かれたと言います。

「点てる人、時間、温度で味がすごく変わるので、難しいけど面白いなと思い、コーヒーの勉強を独学でしました」

「コーヒーを出すお店がやりたい」でもそれだけではなんとなく物足りないと感じていた山西さんが、勤務先の喫茶店がクッキーなどの製造をしていたことがヒントになりました。「焼き菓子を作るのは楽しそうだなと思って。香美町や新温泉町で焼き菓子の専門店もあまりなかったので、『これだ!』 としっくりきて。初めて自分で極めてやっていきたいと思えるものに出会えた手応えがありました」

余部に、自分が極めたいコーヒーと焼き菓子でお店を作る。そのビジョンが明確になりましたが、山西さんは当時も今も子育ての真っ最中。

「まだ子育て中…とは思いましたが、いつかはやってみたい、その『いつか』を待っていたらいつ来るんだろうと思って。今が多分、私がやるべき時なんだという確信があったので、そこからは一気に動き始めました」

それからは開店に向けて奮闘の日々。今の【時と】がある物件は、かつてカニ加工場として建てられた建物でした。余部に住んで14年になる山西さんがその物件を意識したことはありませんでしたが、紹介されて見に行くと、橋梁を望む絶好のロケーションに一目惚れ。開業資金を抑えるために、塗装や改修などはできるかぎり自分一人の手で行いましたが、想像以上に大変で、心が折れそうになったときもあったと言います。そんなときも山西さんの芯にある気持ちがブレることはなく、2022年9月に無事オープンの日を迎えることができました。

 

気軽に立ち寄り、その人その人の「時」を過ごせる空間に

焼き菓子の品揃えは、ショートブレッドにフィナンシェ、パウンドケーキ、クッキー、スコーン、マフィンなど多彩で、思わず目移りしてしまいます。おすすめはショートブレッド。素材本来の味が純粋に感じられる人気メニューです。焼き菓子のメニューは、かつて務めていた香住の喫茶店で、お客様のニーズとして感じ取っていたことを反映しています。贈り物にはもちろん、普段使いのご自宅用としても購入してもらえるよう、気取らない雰囲気の素朴な焼き菓子が並びます。材料は国産バター、国産小麦にこだわり、素材そのものの味が楽しめるレシピを考案。3人のお子さまが試食部隊となり、忌憚なき意見を山西さんに伝えることでブラッシュアップを重ねてきました。

焼き菓子が多彩な分、コーヒーは迷わず選べるようホットとアイスを一種類ずつ。迷子にならずに選べるシンプルなコーヒーを届けることを心がけています。

現在【時と】は、地元の高齢の方がホッと一息コーヒーを飲みに来たり、SNSやメディアでお店を知った人たちがお祝いやお土産に焼き菓子を買いに来たりするなど、様々な人たちが立ち寄り、時を過ごすスポットになっています。2023年2月からは、児童書に造詣が深い地元の方が、おすすめの絵本をならべた絵本コーナーもでき、子育て世代の来店も増えました。

開店日を増やして欲しいという声も上がり、接客が大好きな山西さんにとってもそうすることは目標の一つですが、「今はまだ、子育てメインの運営になっています。放課後の子どもたちが遊びにきて、大きくなってからも『おばちゃん、来たよー』って言ってもらえるような場所になれたらと思うので、いずれ子どもの成長とともにこの店も変わっていけたらと思っています」

スコーン(チョコ)(左上)、マフィン(抹茶ホワイトチョコ)(中央上)、スコーン(ドライフルーツ)(右上)、フィナンシェ(プレーン)(左下)、ショートブレッド(中央下)、クッキー(紅茶)(右下)、時とホットコーヒー(上)

ちょっとした時間に立ち寄ってもらって、その人の時間を味わってもらいたい。その思いでつけた【時と】という名前。子育て中の山西さんにとっては、イレギュラーな事態はつきものですが、そのお子さまたちからも励まされながら、お店育てにも奮闘し続けています。

但馬牛が好きすぎて牛飼いに。伝統を次につなげたい

但馬牛が好きすぎて牛飼いに。伝統を次につなげたい

「和牛のふるさと」として知られる香美町小代区。全国の黒毛和種繁殖雌牛の 99.9 %の個体が、小代のたった一頭の牛「田尻号」の血統にあることが確認されています。この小代に2023年1月、新たに繁殖農家の畜産農場が生まれました。若干23歳で牛飼いとして独立を果たした水間達哉さん。水間さんが牛飼いの道を志した経緯や、今の仕事にかける想いを伺いました。

水間畜産 水間達哉さん

寝ても覚めても牛に明け暮れた子ども時代

 

水間さんは小代生まれの小代育ち。といっても、水間さんの実家は牛飼いではなく、サラリーマン家庭でした。近所の家で飼われている牛に興味を持ち、牛舎に遊びに行くのが水間さんの子供の頃からの日課でした。物心つく頃、幼稚園時代には牛舎で餌やりなどの世話をさせてもらうようになり、土日はもちろん、長期休暇は毎日牛舎へ。小学校に進学したあとも、帰宅するや否やランドセルを放り投げて牛舎へ。毎日楽しみながら牛の世話をする水間さんに牛の方も懐き、そのことがますます牛への愛着へとつながっていきました。そんな幼少期を過ごした水間さんにとって、将来の夢として「牛飼い」を思い描くのはとても自然なことでした。

水間畜産 水間達哉さん

中学3年生での進路選択では、それまで共に過ごしてきた友だちと同じ高校に進学すべきか、一人だけ離れた農業高校に進学すべきかという岐路に立たされます。「それでも将来やりたい仕事は牛飼いしかない。それができなかったら後悔する」と考え、バスに乗って養父市にある兵庫県立但馬農業高等学校に3年間通いました。好きなことを思いっきり学べた、あっという間の3年間。また進路選択の時期になりましたが、「少しでも若いうちに実地で技術を身に着け、5年後には牛飼いとして独立したい」とビジョンの決まった水間さんは、小代区の「上田畜産」で修業をする道を選びました。

 

憧れの畜産農家のもとで修業、独立

 

上田畜産は、約800頭の但馬牛を飼育し、繁殖から肥育、精肉、販売まで一貫して行う大規模経営体で、但馬を代表する畜産事業者の一つです。この上田畜産の代表・上田伸也さんは、水間さんが小学校の時から憧れ続けた存在でした。子どもの時に毎日通い詰めた牛舎に、牛の爪を削る削蹄師として訪れた上田さん。仕事や但馬牛についての熱い想いを聞き、その頃から「絶対に上田畜産で修業したい」と思うようになったと言います。農業高校在学中から上田畜産でアルバイトを始め、卒業時には、「5年後に独立したい」とビジョンも伝えた上で修業を開始。大規模で、またすべて一貫で行う現場で修業したことで、自分の仕事がどう繋がりどのようにして消費者の口に入るのかというところまでを見届けることができ、大きな刺激を受け続けた毎日でした。

(水間畜産 牛舎)
(水間畜産 牛舎)

 

修業3年目からは独立に向けて牛舎を立てる土地探しをはじめました。親から受け継いだ牛舎や土地があるわけでもない水間さんにとって、土地探しは難航を極めました。どこにでかけても、「この土地に牛舎を建てるとしたら…」と想定を重ねる毎日だったと言います。今牛舎を構えている土地は、風通しも土地の広さもよく、暑さに弱い牛にとっても最高の環境を提供できています。香美町役場や農業改良普及センター等に相談し、畜産クラスター事業として補助金を受けるなど、情報収集も丹念に行って独立に向けて着々と準備を進めてきました。そして2023年1月6日、母牛6頭・育成牛10頭の牛とともに、改めて「水間畜産」として牛飼いとしての大きな一歩を踏み出しました。

先人が守り続けた但馬牛の伝統をつなげたい

 

現在は牛飼いの中でも、繁殖農家としての技術を極めたいと奮闘中。命を預かるものとして、何も言わない牛をよく観察し、少しでも違う所があればすぐ対応。そして「なにかおかしい」と感じたところが的中すると、それもまた自信に繋がります。

子牛一頭生まれるのにも、母牛の育成から始まって何年もかかります。今日の仕事の結果が出るのはずっと先。「でも自分も頑張るし、牛も一生懸命頑張ってくれてるので、それを評価してもらうのを楽しみに頑張っています」

「とにかく牛が好き」と話す水間さんですが、「牛なら何でもいいわけではなくて、やっぱり但馬牛が好きなんです」とのこと。地域の中だけで交配が行われた純血の但馬牛だけが持つ品格と伝統。但馬牛は兵庫県内だけで交配されるのが基本ですが、香美町がある美方郡内の但馬牛は、美方郡内だけで閉鎖育種を行っているのでより希少です。更に純血種なので人間目線での「飼いやすさ」はなく、病気もしやすく大量生産にも向きません。だからこそ「この地域の但馬牛を守り、次の世代につなげていかないといけない。そこが責任も重く難しいですが、やりがいもあるところです」と水間さんは話します。地域の畜産業界も高齢化が進み、牛の数を減らさざるを得ない畜産農家さんも少なくありません。この状況下にあり、水間さんのような若い畜産農家の誕生は地域の希望でもあります。

これからの目標は「良い牛を残し続けて、但馬牛の伝統をつなぐこと」。全国和牛能力共進会のような大きな大会で上を目指すことも目標の一つではありますが、若手としての今はまず土台作り、基礎づくりの時期だと水間さんは考えます。そして、自分と同じように牛を飼ってみたいと思う若手の仲間も増えてほしいと願っています。水間さんのような非農家出身でも立派に牛飼いができるという姿を見て、若い世代が夢や希望を感じる。そんな存在になれるよう、水間さんは今日も、餌やり、徐糞、体調の観察など、日々の仕事に精を出します。

こころのままに生きて綴る、香美町ぐらし

こころのままに生きて綴る、香美町ぐらし

大阪市大正区出身の27歳女性が、単身香美町へ移住。「地方移住」というと、地域づくりについての大きな志がある人や、移り住んだ場所で成し遂げたいことがある人がすること、というイメージがあるかもしれません。しかしここ数年は、「地域づくりのため」「地域活動をしたい」という想いではなく、ひらめきや流れに乗ってカジュアルに居住する人も増えています。木下美月さんもその一人。都会生まれ都会育ちの彼女が、香美町に住まいを構えた経緯や、今の暮らしで日々感じることをお伺いしました。

 

「海が好き」その気持ちにしたがって移住

 

地元は大阪、その後東京、香川と住むところを変えてきた木下さん。仕事は、アパレル関係や呉服関係の販売業務。その仕事の特徴から比較的都会的な場所で暮らしてきたといいます。香川県は、大阪・東京よりは田舎寄りでしたが、「なんとなく中途半端で、もう少し住む場所の田舎度を高めたい」と思っていました。彼女の友人の中には、数年前から香美町小代区に移住してきた人もいて、その友人に誘われて遊びに来たのが、香美町との出会いでした。

香美町には香住、村岡、小代の3つの地区があり、暮らしぶりや住んでいる人の雰囲気も、地区によって異なります。その中で木下さんが住んでみたいと思ったのは香住。他の地区に比べると、鉄道があり、スーパーマーケットなども近く、何より海を近くに感じることができるのが魅力でした。香住の海は波も激しく、岩に打ち寄せる波のダイナミックさが彼女好みだったといいます。多くの人が移住前に悩むように、移住したい先でしたい仕事ができるかどうかという課題は彼女の中にもありました。

「でも、どこに住んでいても悩むことはあるし。だったら、友だちも近くにいて、海も近くにあって、ちょっと試しに住んでみようかなと思って」

180度変わった、「住まい」に対する価値観

「WONDER KAMI」の空き家バンクで見つけた物件は期間限定、住める期間が限られていました。そのことも「ちょっと住んでみようかな」という彼女の気持ちを後押しし、また移住後の暮らしの一つのものさしにもなりました。

「住める時期が限られているからこそ、時間の使い方を妥協しないでおこうと思えています。限られた時間の中で今これをすべきかどうか考えるから、無駄遣いもしません」

もともときれいで可愛い暮らしが好きだったという木下さん。都会での物件探しは、お風呂がきれいなこと、バス・トイレが別であることや蛇口の形など、様々な条件がありました。

「でもここでは、不便さもここまでくるとかわいいなと思えてきて。なぜ過去の私は、きれいなマンションがよかったんだろうってちょっと不思議です」

(今の趣味のうち一つは、レトロな喫茶店巡り)

住処に関する価値観が大きく転換。便利さを求め、美しく可愛いものを求めるのではなく、「現状をかわいいと思えるほうが豊か」だと今は感じています。

「なぜか、住む場所が変わったら、満足を得る部分も変わっちゃったみたい。正直、今の暮らしは、家も一軒家で広すぎて手に負えないし、可愛くもなってない。でも小さいことで満足を感じています」

今一番幸せなのは、朝起きて、キッチンの小窓を開けるときなのだとか。誰かに勝つわけでも、お金をかけるわけでもないのに、豊かさに満ち足りる朝のひとときがそこにあります。

 

等身大に生きることで、人生にエピソードを

東京の街を歩くときは、自分が「ダサい」かどうかがとても気になっていました。すれ違う人をジャッジし、また自分もジャッジされているような気持ちになり疲れることもあったといいます。香住に引っ越してきた今は、ありのままの自分を受け入れられているような楽さを感じながら、また別の気持ちも抱いています。

「田舎だから適当でいいや、という気持ちも持ちたくない。服も、こんなの香住で着るとこある? って思うような派手な格好でも、好きだと思ったら買うし着ちゃいます」

田舎だということを理由に、自分の好きなことを我慢しないのも大切なポリシー。自分がものを見る角度を変えると、それまで気になっていた色んな人の目も気にならなくなったと言います。

移住前、「したいこともできないし、私は田舎で生活するのは無理」と話す木下さんに友人が言ったのは「田舎だからこそできることがある」という言葉でした。若い人や新しい技術が都会に出ていってしまうからこそ、少しでもできる人がいたら周りは助かる。周りの人の小さな困りごとを、「手伝えるよ」と手を上げていくことで、小さく役立ち、小さく働くスタイルもある。ゆっくりぼちぼち、あなたがやりたいことを叶えていく姿を見てみたい。そう背中を押してくれた友人の言葉が今彼女の励みになっています。まずは住むところから始め、「このまちに暮らしながら、どんな仕事ができるのか探ってみたい、知ってみたい」と話す木下さん。田舎暮らしを発信したいという気持ちは、はじめからあったわけではありませんでした。でも彼女ならではの目線で香美町での暮らしを書いてみてほしいと、「WONDERKAMI」の「暮らしを綴る」連載の話が舞い込んできたのは、何かをつかむ一つのきっかけになりそうです。

「私は適当な人間だけど、そんな私の発信を見て『これなら私もできる気がする。私ももう少し自由に生きていいかな』って思ってもらえたらうれしい」

人生は一度きり。今27歳の彼女ですが、これからどんな転機があるかはわかりません。家族を持つことになるかもしれない、両親や祖母も年を取っていく。その中で「今は比較的好きに動ける時期。自由にやるなら今しかないんじゃない?」と思って日々を生きています。

「私はいろんなことを諦めて生きてきて、打たれ弱いけれど、もし将来子どもができたら、自分の経験から面白かったことをエピソードトークみたいに聞かせてあげたい。人との出会いが生きてくることはあるし、わくわくすることはいっぱいあると伝えたい」

ご近所付き合いも、香住ならではの暮らし方も、まだ始まったばかりの手探り状態。大雪も、激しい波も、それまでの非日常が一気に日常になっていく不思議を今、彼女は心いっぱいに感じています。新しく始まった香美町での暮らしが、彼女の目にどう映り、どんなエピソードを積み重ね、何を「綴って」行くのか、これからの暮らしにも注目したいところです。

 

 

一目惚れした小代の物件、自由な暮らし発信の場に改装中

一目惚れした小代の物件、自由な暮らし発信の場に改装中

2019年、「WONDERKAMI」の空き家バンクに掲載された物件に一目惚れ、小代区佐坊の古民家を即決購入した坂原義浩さん。現在坂原さんは自らユンボを操り、床を剥がして大正13年の古民家リノベーションに精を出しています。坂原さんのこれまでの歩みと、この場所で描く展望についてお話を伺いました。

 

「やりたいことはぜんぶやる」自由に楽しく生きる大人の姿


(坂原義浩さん)

 

坂原さんの生まれは大阪・生野。田舎暮らしとは縁のない暮らしでしたが、祖父と一緒に山遊びをする時間は、幼い頃の楽しい記憶だったと語ります。「やりたいことはぜんぶやりたい」が信条の坂原さん。子どもの頃から車いじりが大好きで、高校卒業後は自動車の整備士として働き始めました。「給料は安かったけど、楽しくて好きな仕事やった。でもそこにお客さんとして建築会社の社長がやってきて」社長の話に惹かれ、建築関係へと職替え。資格も取得し、たくさんの建物の建築や増改築に関わってきました。その時の経験が今のリノベーションにも活きています。

「そのうちにだんだん、雑貨屋をやりたいと思うようになり」物件を借りて自らの手でリノベーションし、大阪府八尾市に雑貨屋さん「自遊本舗」をオープン。雑貨屋さんでは流木やシーグラスなどをアレンジしたものや照明も販売。その屋号にもあるように自由に楽しく経営してきたところ、常連だった大学生がアルバイトに入り、そのまま「ここで好きなことやらせてもらいます」と就職。坂原さん自身も、雑貨屋さんの他にもどんどん「やりたいこと」が生まれてゆき、次々に新しい事業を始めていきました。

「今、全体的にはどんなことをしているんですか」という質問には、居酒屋から菓子製造業、パッケージデザインと様々なキーワードが飛び出します。いくつもの顔を持つ暮らしは忙しそうですが、頭の中に項目ごとに整然とファイルが分かれているような状態で、モードチェンジはお手の物だとか。ここ数年は、「自然、田舎、古民家」をキーワードに新たな拠点を探し続けてきました。奈良県吉野郡天川村でたこ焼き屋さんを開いたり、和歌山の白浜近くで古民家を購入してリノベーションし、民泊をしたり。その中でも坂原さんがひときわ気に入っているのがここ、香美町小代区佐坊の物件だといいます。

 

一目惚れした小代区佐坊の古民家で、夢は更に広がる

小代区佐坊の古民家について、坂原さんはこう話しています。

「こんな太い柱に大きな梁。こんなすごい物件はなかなかない。古民家と言っても、途中でリフォームして新建材を使っている物件もあるが、ここは大正時代に建てられたままの状態で残っている。立派な蔵もあるし、ここでやりたいことがいっぱいある」

インターネットで香美町空き家バンクのこの物件を見たそのときにはもう電話を手にしていたという坂原さん。「誰にも取られたくなかったから、次の日にでも見たいと伝えて」実際に来ると、もうこの場所で叶えたい夢のイメージが次々浮かんできたと言います。

かつて牛小屋だったスペースをカフェに改装し、見晴らしの良い高台部分にはロッジを作ってバーベキュースペースに。隣の大きな農機具置き場はお客様のくつろいでいただけるスペースに改装し、立派な蔵はアコースティックライブができるようなスタジオに。

「カフェやロッジができたら、村の人の憩いの場にもなったらいいし、都会から若い子を呼んで、こんな絶景があるということや、こういう暮らし方があるということを伝えたい。もし空き家に住むことに興味があるなら、リノベーションはなんぼでも教えるから」

自然の中だからこそできる自由に遊ぶような生き方を、来て見て体感できるような場所にしたいと、坂原さんは考えています。

 

生かしてもらった命に感謝して、夢へと突き進む


(改装後は、窓から見える景色も楽しんでほしいと話す坂原さん)

さて、インターネットで見つけた物件をきっかけに小代区に移住した坂原さん。親類も知人もいないこの土地で住むにあたって、心がけていたことがあります。

「地域の人も、知らない人が来て、工事やリノベーションを始めたら不安やと思う。迷惑をかけることもあるから、積極的にこっちからコミュニケーションをとってきた。こっちがとじこもってたら余計不安にさせてしまうから、知らない人でもとにかく元気に挨拶して」

村の人も親切な人ばかりで、声掛けをしてくれたり野菜を持ってきてくれたりと温かいコミュニケーションが続いています。傾斜のある小代区佐坊で暮らしてきた村の高齢者は、年をとっても元気いっぱい。鍬を抱えてスタスタと傾斜を登っていく姿に、「僕も負けてられへん」と刺激をもらう日々だそうです。

古民家改装からカフェ開店へ向け、村の人からは「オープンしたら行くわ」と声をかけてもらえています。地域からも見守られ、夢は大きく広がりますが、「やりたいことがありすぎてなかなか進まへん」とのこと。特に昨年ユンボで事故に遭い、長期入院したこともあって計画は大きく遅れているのだそうです。「でも、心肺停止だった自分を、この村の人が助けてくれて生き返った。せっかく生かしてもらえたんだからできることを精一杯楽しみたい」と、日々大工仕事に勤しんでいます。精力的に楽しむ坂原さんに大変なことはないかと聞くと、「大変なことはといわれたら、大変なことばかり。でも、大変でええねん。大変だから目の前にやることがあって時間がつぶれる。それでええねん」。常に目の前のことに向き合い、取り組み続けることでいつか思いが花開く。与えられた命を存分に楽しみながら、坂原さんは夢の実現に向け、日々「大変だけど楽しいこと」を積み重ねていきます。

 

 

 

気づけば近くにあった「大切な場所」で新たな挑戦を

気づけば近くにあった「大切な場所」で新たな挑戦を

家業がある家に生まれた子どもには、多かれ少なかれその家業と向き合う局面が訪れます。それを運命の仕事として自然と憧れ目指す人、自分なりの道を他に見つけて外に出る人、それぞれにストーリーと想いがあります。時計・宝飾・眼鏡を取り扱うお父様の背中を見て育ち、現在家業を継ぐため通信大学で資格取得を目指している北村(きたむら)要司(ようじ)さんにも、家業を志すまでのストーリーがありました。

 

 

家業から離れ、音楽に明け暮れた日々

北村要司さん

 

北村要司さんはキタムラ時計店の次男として生まれ、幼少期から高校まで香住で育ちました。高校卒業後の進路を決める段になっても、北村さんには進みたい道が見つかりませんでした。やがて周りの勧めもあり、家業を受け継ぐつもりで時計・宝飾・眼鏡を総合的に学ぶ専門学校に進学。それを機に生まれ育った香住を離れました。学校で知識や技術を身につけ始めていた北村さんですが、そのうちにどうしてもチャレンジしたかったことを思い出します。ロックが好きでベースを弾くのが得意な北村さんは『一度自分の夢にチャレンジしてみたい』と一念発起、専門学校を辞めて大阪は難波へ。ベーシストとしてバンドを組み、数々のライブ活動を行いました。大好きな音楽に囲まれ、便利な都会で過ごす日々は刺激的でしたが、30歳を過ぎた頃、音楽活動に限界を感じ始め、2013年に帰郷。

「親は、僕自身が帰ろうと決断するまで、思う存分音楽をやらせてくれました。20代のころも、何度か帰ったほうがいいのかと思ったことがありますが『今帰ると一生ひきずる』と思ってやりきりました。納得いくまでやらせてもらえたので、全然後悔はありません」

区切りをつけて香住に帰ってきた北村さんは、新しい暮らしにむけて動き始めました。

見慣れたこの場所が「愛おしい場所」に

北村さんの前職は豊岡市の映画館スタッフでした。その映画館はただ映画を上映するだけでなく、豊岡市への移住者が集まる拠点としても利用されています。様々なストーリーを持ち移住してきた移住者たちとコミュニケーションをとるうち、「まちの時計・メガネ店」として親しまれてきた「キタムラ時計店」を想う時間が増えてきました。

「ふと、この場所が愛おしくなったというか、『自分にはここがある』と思えたんです」

自分なりの目線で、「家業」を見つめ直したい。そう思ったとき、北村さんがピンときたのが「メガネ」でした。

「以前時計・宝飾・メガネの専門学校に行っていたときも、時計と宝飾の授業よりもメガネの授業が好きでした。これから高齢化社会も進んでメガネが必要な人は増えますし、ゲームやスマホの影響で視力が下がる子供も増えています。社会的にニーズも大きくなり、さらにファッション性もあるメガネに可能性を感じました」

はじめは家業後継を見据え、お父様から学ぼうとした北村さんでしたが、お父様は生粋の職人。背中で見て学ぶのも難しく、カリキュラムに沿った体系的な学びを得たいと考えます。

「通信教育でメガネについて本格的に学びたいと言ったとき、父は『ほんまかい』というようなリアクションでしたが、今は両親も妻も、家族全員で勉強を応援してくれています」

2022年11月に誕生した国家資格・メガネ制作のエキスパートの証「眼鏡作製技能士」を目指し、メガネの通信制専門学校に入学。毎月教科書に沿ってレンズの加工の仕方や眼窩の構造など専門知識を学び、レポートを提出して着実に単位習得に向けて動く日々の始まりです。

 

まちのメガネ屋さんだからこそできること、自分なりの後継の形を

現在は「キタムラ時計店(メガネのキタムラ)」で実務経験を積みながら勉強も行い、お店のSNS発信等も請け負う北村さん。香住のまちで長く続いている「まちのメガネ屋さん」だからこそできることがあると話します。

「メガネの量販店では、おしゃれで安価なフレームがたくさんあります。でも、こういう個人のメガネ屋としては、お客様の『よく視えるという喜び』に寄り添うことが大切です。一人ひとりの目に寄り添った丁寧な検眼を行い、レンズの品質にこだわったメガネを提供したいと思っています」

さらに「まちのメガネ屋の弱点としては『入りにくさ』があると思います。そこのハードルを越えてきてもらえるように、例えば中でコーヒーを飲めるようにするのもいいかなと、漠然と考えてもいます」と、専門学校卒業後のビジョンも描きつつあります。

前職で移住者とよく話し、また今故郷のまちのメガネ屋さんの後継を目指す北村さんは、地方移住についても想いがあります。

「このまちのために何が出来るか、と考えて移住される方も多いのですが、まずは『この場所で自分が何をしたいのか』を考えることが大切かなと思います。都会と違う風習や人付き合いもあり、香住はいい人が多いですが人間関係も濃いので、自分のぶれない『目的』を持つことは重要です」

北村さん自身も今「やりたい」と思えることを見つけ、また同級生もやりたいことを求めて帰ってきている人たちがいるといいます。帰る人、来る人、多くの人の「したいこと」「やってみたいこと」が集まってできる「新しい香住のまち」の姿が楽しみです。